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1ぺーじ

『1920年代の宇宙の微風に関する断片』立岡さんの文章の続きです。



1920年代の宇宙の微風に関する断片

あまりにも純粋すぎてまぶしすぎるマレービッチのシュプレマチズムと、ロシア・アバンギャルド。
無限に信仰的で精神的な、単純化されたフォルムと色彩の強烈な印象に最初の現代美術との出逢いを見せてくれたマーク・ロスコー。
悲劇的な自殺という形で、生きることに挫折してしまったロスコー。 一度でいいから彼の絵が飾ってあるヒューストンの「ロスコーチャペル」に佇んでみたい。 
そして、1920年代のロシア・アバンギャルドとアメリカ現代美術との共通性、ロシア・アバンギャルドの絶対的な優位性についての根拠。
絵画の終焉という、ある種の人々にとって魅力的な想いを、その絵画そのものによって味事に裏切って見せてくれた菅野聖子さんの作品。
働くとゆう、まったくバカげて単純なことを、教えてくれた数少ない私の職人仲間たち。いつも私を魅惑し悩ませ、気づきもしなかった新しい自分の姿をまるで鏡に映し出すかのように見せてくれた、魅力的な幾人もの女たち。
微妙な感情のずれから、ひとつのきっかけと自信を与えてくれたジャズ喫茶の奥さん。
そして・・・とどきそうでとどかないわたしの中で増幅された様々なイメージの世界と現実との差異による激しいユレモドシによっていつも溺れそうになりながら過ごしていた自分に、今まさに気づく。
私には創造者としての才能も表現力もないし、ただ模倣することと、気まぐれな造型の遊びとしての稚拙な作品しか創造できないのだとしても・・・ただ多少なりと創造者としての資質があるとすれば、それは様々な世界から受ける一瞬のこの情感と、それに伴って持続し続けるイメージを臆病な少年のような憧憬と、愛しい者に対するつつましやかな感情で、そっと世界にむかって投げ返そうとする行為、もしくはその企みへの抑えがたい欲求である。
もし創造者としてのエネルギーがあるなら、それはこれらの世界に交り、理解しあいたいという、欲望とその可能性への幻想によるものだろう。
私達は今、男も女も老人も、そうしてこどもたちさえもが過去にかってなかったような多様な価値観を持って、驚異的な科学の時代と物質文明の中に生きている。
イデオロギーも宗教も、そしてひとりひとりの豊かな消費生活までもが無化されようとしているように思える現代の情況の中で、真摯なひとびとによる自由で、自発的な、創造的生活を思うとき、得体の知れない、力を感じる。
今信じがたい程の速さで人間の歴史がひとつの沸騰点に向かっては知り続けているような気がする。
ジョージ・オーウェルの「1984年」が過ぎ去った今、未来が、彼の予感したような管理化された世紀末イメージの世界として待っているのか、J・P・ホーガンのSF小説のような楽天的な未来世界のイメージが似合うのか、それは私の理解を越えたまるで知れないことだけど、ひょっとして私たちが生きているこの時代が、過去のどのような時代よりも自由で、豊かで、創造的なときの流れと風影の中で暮らしているのに、気づいていないのかも知れない。
そのことを思うとき、ほとんど意味もなく、SEI(生・精・性)あるものすべてに素直な気持ちで感謝してみたい。いいつくせるなら、自分自身に少なからず感動している私自身のイメージを一瞬の幸せな感情として今見つけ出している。

When you hear music, after it' over, it' gone in the air, you can never capture it again. 
                                  Eric Dolphy

感傷ではなく叙情、依存するのではなく影響として 瑛九

世界が見えなくなったので、そっと一本の線に還元してやった/

関係の絶対化=ひふていひふてい(基本)

この文字を読まなかった私はいない 吉田ハルオ

詩は向こうからやってくるということ 星山英一

補填 今、必要なのは日常生活者としての豊かな感情の中で、十全に充たされた穏やかなある生活のこと・・・  1985.4. 2

***

いやあ この文章はゆっくり読んでみると いいですねえ。
立岡さんは ご自分ので出会った 影響を受けた人たちをゆっくりと 思い出しているのかなあ。そのひとりひとりのことが 立岡さんの泉のなかにあって かきまぜたり 引っ張り出してみたりして これは楽しいことですね。

「そして・・・とどきそうでとどかないわたしの中で増幅された様々なイメージの世界と現実の差異による激しいユリモドシによっていつも溺れそうになりながら過ごしていた自分に、今まさに気づく。私には創造者としての才能も表現力もないし、ただ模倣することと、気まぐれな造型の遊びとしての稚拙な作品しか創造できないのだとしても・・・ただ多少なりと創造者としての資質があるとすれば、それは様々な世界から受ける一瞬のこの感情と、それに伴って持続し続けるイメージを臆病な少年のような憧憬と、愛しい者に対するつつましやかな感情で、そっと世界にむかって投げ返そうとする行為、若しくはその企みへの抑えがたい欲求である。もし創造者としてのエネルギーがあるなら、それはこれらの世界に交じり、理解しあいたいという、欲望とその可能性への幻想によるものだろう。」

私はこのところに動かされました。「ものを見るという行為は そのものと同じようなことはできないけれども 近づいてみたい」 
これはものを創造した作者にとっても やはりこういう相手の人がいるということは 喜びであり 作品はそのようにして成立しているのだと 思いました。「世界に交じり 理解しあいたい」これは作品に出逢った人の深い想いであり その「作品」と「作品に出逢った人」は そこで光るのですね。
この世界にはいろいろ悲しいこともあります。 幸せなことは少ないのかもしれません。
でも幸せな一瞬はあるのだと 立岡さんの文章は教えてくれているのですね。

「ひょっとして私達が今生きているこの時代が、過去のどのような時代よりも自由で、豊かで、創造的な時の流れと風影のなかで暮らしているのに、気づいていないのかも知れない。そのことを思うとき、ほとんど意味もなく、SEI(生・精・性)あるものすべてに素直な気持ちで感謝してみたい。いいつくせるなら、自分自身に少なからず感動している私自身のイメージを一瞬の幸せな感情として今見つけ出している。」

立岡さんがこんな一瞬を持ち ここに書いたということ。

世界が見えなくなったので、そっと一本の線に還元してやった/

さいならさいなら

《 2015.04.29 Wed  _  ちまたの芸術論 》