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『ピカソとその周辺』フェルナンド・オリヴィエ著 佐藤義詮訳の続きです。


「詩と散文」の火曜会

 火曜日ごとに、ピカソの一党は、「クロズリー・デ・リラ」で開かれ、ポール・フォールを創立者に戴き、アンドレ・サルモンが秘書役だった「詩と散文」の夕べに出かけた。連中はよくそこまで歩いて行った。それではパリ中を横断するわけだが、顔には若さをたたえ、胸には希望が溢れている時には、歩くことなんか苦ではなかった。
 この火曜日の集まりには老若取りまぜて、詩人や作家や画家や彫刻家や音楽家の面々がやって来た。私はそこで、ほとんどすべてが豊かな才能に恵まれた当時の芸術家のもっとも特異な人々の面影に接した。

 モレアス、アルフレッド・ジャリー、スチュワール・メリル、ポール・ナポレオン・ロワナール、エレミル・ブルジュ、フェルディナン・エロール、ギュスターヴ・カーン夫妻、デュアメル、ヴィルドラック、サルモン、アポリネール、ファギュス、レオン・ドゥベル、フェルナン・グレー、ギイ=シャルル・クロス、モーリス・マーケル、モンフォール、ロワイエール、ダンヴィル夫妻、レイナル、ディドリック親子、ベルナール・ノーダン、ブラック、ピカソ、その他一々列挙する煩にたえない。

 何という賑やかさ!何という馬鹿騒ぎ!何という狂態だったろう!時々カフェの主人に戸口まで追い立てられてやっとけりがついたほどの何という果てしのない討論だったろう・・・。
 真夜中になると、誰も彼も興奮していた。いくらでも酒をあおった。ポール・フォールはいつも熱中して、この騒ぎの中でも聞いてもらいたいと思ったので、かれの奇妙な甲走った小声が耳を聾するばかりの喧噪を貫いて、時々聞こえて来るのだった。
 モレアスの鳴り響く雷のような声が、新来者に向かって、カフェの隅から隅まで、しばしば辛辣な横柄でさえある歓迎の言葉を投げかけた。しかし毒舌のうちにさえ、彼は一種の慇懃さをこめていたので、そのお陰で毒舌も聞き流されたのだということを認めなければならない。そればかりか人々は彼をとても尊敬していたので、彼のいうことなら誰でも聞きいれていた。
 彼はピカソを迎えるといつもきまって「ねえピカソ、ヴェラスケスには才能があったのかね?」などとまるで含嗽(がんそう)でもするような声で付け加えるのだった。彼が好きだった、響きがよくて美しいこの名前を、まるで美しい詩でも朗読するような調子で発音するのだった。
 ある晩、その後名声を博したさる詩人の細君が、、彼の前で愛嬌を作りながら、老けるのはいやだから四十才以上は生きたくないと言うと、「では奥さん、あなたの御最後もお近いうちですね」と、すかさずモレアスが答えた。
 モレアスはユダヤ人が大嫌いで、いつも彼らを敵視していた。ある余り名もなければ才能も乏しい、ロシヤ系ユダヤ人の作家が「僕が死ねば・・・」と言ったのに対して、「だが君、君はとっくの昔から死んでるじゃないか」と答えた。
 彼自身も、この仲間に迷いこんだある小柄な女からやっつけられていた。彼女は急所を外さず、パリ女らしい嘲笑を浴びせることを心得ていたお陰で、彼女がこの仲間に混じっていても、さして場違いの感じを与えなかった。 ブロンドで、はつらつとし、敏捷で、口の悪い彼女はモレアスに毒舌を投げつけると、彼はそれを快活に受け止めていたが、彼女が染めてアイロンで縮らせた口髭を冷やかした時には、彼もいささか苦々しい顔をしないでもなかった。
 私はある日、めかしこんでいるくせに、時々一番基礎的な身だしなみを怠っているように思われるモレアスに、彼女がこう言っているのを聞いた。「ねえ、モレアスさん、一時間二十サンチームとして、家政婦があなたのお耳を磨き、その陰に隠れている毛を剃ってあげるのに、四十サンチーム以上はかかりますまいよ」
 するとモレアスが、コスメチックをつけた口髭の先をとがらせるために丹念に人差し指を湿らし、見る見るうちに黒く汚れた薬指をあげて、威厳たっぷり「考えておきましょう!」と答えたのを見るくらい滑稽なことはなかった。

***
モレアスの「染めてアイロンで縮らせた口髭」そういう髭、当時はやってたんですかね。昔の男の人の口髭は立派だったり ちょぼひげだったり ぴーんと長く上がっていたりと
面白いのがありますね。

ここには そのころいた芸術家たちの名前がたくさんあります。ブラックとピカソぐらいしか知らない私ですが 第二次世界大戦が始まろうとしている頃、パリがこのような人々の集まる所であり、ここから印象派や前衛芸術など生まれていったんですね。こうして書き写してみるだけでも その空気が伝わってくるようです。他にも詩人、作家、彫刻家、音楽家など。そのエネルギーのある所に集まってくるんですね。

このあいだ 藤田嗣治(感じあってましたっけ?)もあんな場所に出没したらしいですね。 藤田はイヤリングにちょびひげです。 おかっぱ頭が似合っていたのかどうかはわかりませんが ピカソとも議論した人のようです。これから藤田もこの本に出てくるんでしょうか。戦後藤田は結局フランスに帰化して カソリックにもなり あちらで亡くなりました。
あのような賑やかで 一番活気があった時代にパリで生きた人は 日本よりあっちがよかったんでしょうね。 それでもフランスでピカソたちとともに芸術家として頑張った人はどれぐらいいたんですかね。 日本人もこの世界にものすごくあこがれたそうですよ。 日本人だけじゃない、みんなパリに出たものの 苦労の末早死にしてしまったモジリアーニなんかもいますね。
ほんの一握りの芸術家が成功したわけですが みんな 夢を持って集まったところなんですね。

「ねえピカソ、ヴェラスケスはには才能があったのかね?」このモレアスにピカソはどう答えていたのかしら?

さいならさいなら
《 2015.04.08 Wed  _  ちまたの芸術論 》