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1ぺーじ

『ピカソとその周辺』フェルナンド・オリヴィエ著 佐藤義詮訳の続きです。


ヴェルナンの店

 カナルスが家族を引き連れて、バルセロナに帰ってしまったので、彼の家で食事をする時代は過ぎさってしまった。
 そこで次はヴェルナン料理店の時代だった。オーヴェルニュ生まれのヴェルナンは、カヴァロッティ街の質屋の近くに店を構えていたので、運良くまだ何か質に入れる物がある時には便利だった。気の毒な程物覚えが悪く、芸術家たちに対して親切な型のヴェルナンは、彼らに貸し売りするのを断ることができなかった。一党の連中が揃って正午か七時にそこに顔を見せたのも、そのためである。一党の中には慈善心を起こして仲間らを連れてくるものもあったので、相当な人数になった。
 その時分ヴェルナンの店に通った者はだれでも、料理場と地酒の臭いが混ざり合って不愉快な臭いのする、天井の低い暑苦しい小部屋に集まった、異様な、色とりどりのお客のことを覚えているはずだ。そんなかことにはお構いなく、連中はそこでがつがつと食事をし、実に賑やかだった。
 そこにはピカソの画材になりそうな場面が数々あった。新進の女優たち、たとえばクリスチャーヌ・マンチーニのように、食事をしながら半スチエ入りの赤葡萄酒の瓶に台詞の書き抜きを立てかけて勉強している者もいた。
 彼女の姉妹の、オペラ座のルイズ・マンチーニもよくやって来た。ロジェ・カールも、一時はきまってそこで食事をした。私はまたデュランや、背が高く、乱暴で、口が悪いが愉快な、いつも四十スウの部屋をさがしている俳優だったが、欧州大戦で戦死したオランをそこでたしかに見かけたように思う。彼はしばらくヴェルナンの店で、彼の計画の一つの回答を見出したのだった。「もう一旗揚げることだ」と、彼はよく言っていた。
 みじめな、その当時、特に惨めだったブランセ夫婦がやって来た。夫のほうは痩せっぽちで、顔一面に赤毛の濃いひげがくいこんでいて、どうしてもそこから意地の悪い皮肉な表情を感じないではいられなかった。一方、細君のほうはとても美人で、髪は栗色で、顔色に艶がなく、意地悪な怒りっぽい口つきをして、情熱的で、その夫といい対照だった。
 まだこの他にも、画家ルッセルの兄弟の医者も来ていた。彼が被っていたシルク・ハットはそこの空気にそぐわなかった。
 どの常連もお金が入った時には、ヴェルナンに支払いをしていた。すると、かならず幾人かのお客の食事代が誰か彼かの勘定書についていた。
 見かけは少々騒々しい一党の連中も、どんなにはしゃいでも、実はかなり憂鬱だった。ヴェルナンの店に行くのは、とてもつらかった!
 帰路につくとずっと陽気になった。そして大変な意気込みで製作にとりかかった。なぜなら、みんなは熱心に執拗に製作していたから。
 時に幾日かをむだにすごすこともあったが、いつでもそれを取りかえしていた。
 ピカソが数日間オランダに旅行する機会を得たのは、たしか1904年ごろのことだったと思う。
 彼は、トム・シルペロートというオランダ人に連れて行ってもらった。この男は親切だが変わり者で、パリで財産を使い果たすと、最も質の悪い浮浪者になってしまった。
 オランダでピカソの心を打ったのは、オランダの娘たちが背の高いことだった。
 頭だけ彼より高い「小娘たち」がよく彼に接吻し、膝の上に坐ったものだ。そんなとき彼はどうしていいか分からなかった。「これには僕も面食らったよ。それに甲冑兵のように背の高い若い女学生たちが街中を行列しているのは、実に滑稽だ」と彼は言っていた。
 ピカソは太陽を愛する男だったから、霧の多すぎるこの国をあまり高くは買っていなかった。けれども、彼はそこから数点の美しいグワッシュと白いレースの髪飾りを被ったオランダ女の肖像画と、他にもう一点、白い髪飾りの上に更に奇妙な帽子を被った三人のオランダ女を描いた絵を持って帰った。
 これらの習作の一枚はドゥリオに贈られた。他のものは捨て値でクロヴィス・サゴーに買い取られた。
 クロヴィス・サゴーは、バスラー氏がどんなに言ったり考えたりしてようと、当時随一の始末屋の画商だった。

***

ピカソとその連中は ヴェルナンの店でがつがつと食い 後は絵を描いた。
いい絵ができるほずですよね。エネルギッシュでハングリーでシンプルで とでまかせを言ってしまいましたが。他にも俳優たちもいて そんな環境はすごいわ。暑苦しいけど。
そんな連中を受け入れていたヴェルナンの店があったというわけですね。そこに行ったらいろんな連中がいて刺激をもらえる。
「それでもどんなにはしゃいでいても、実はかなり憂鬱だった。ヴェルナンの店にいくのは、とてもつらかった! 帰路につくとずっと陽気になった。そして大変な意気込みで製作にとりかかった。なぜなら、みんなは熱心に執拗に製作していたから。」

私もそんなたまり場に行ったことがあるかなあ 日本で。あるんですよ それが。そこで絵をかけさせてもらったこともありました。大阪の梅田。いつも行ける程近くはないんだけど 緊張しながら行ってたんです。 で、帰ってから絵を描く。やっぱり一人で描いてるときが一番なんですよね。でも時にはそういうところに言って緊張して どっか一般的でない環境に出会うと違うんです。
おそるおそるフットワークを軽くしていた(おかしな日本語ですが)時代。とっても疲れると そういう経験をして 思っていましたが。 騒ぐことと 静かに描くこととは 「有る」ということを若い時に知っていたら 疲れる自分をおかしいと思わずにすんだのかも。 「騒ぎの中に飲み込まれそうと だから静かなほうを選ぼうとした」そんな 自分はわかっちゃいなかったんだなあ(笑)

「そこにはピカソの画材になりそうな場面が数々あった」ありそうですよね。そこにいるだけで俳優を描いたり 他の画家たちもお互い描いていたりして。そんな空気。みんなひとくせありそうなのばかりで。オリヴィエの観察眼 これだけでも もう半分人物を描いたようなもの。 読んでいるだけでやる気が出そうですね。

オリヴィエという人は 人のえぐいところを書きましたね。でもそれと同じくらいほめもする。これ日本人には少ないと思うんですが。「ほめ殺し」という言葉 「くさす」というような言葉あっちではあるんですかねえ。 日本で美人がこういうこというと 人気おちそうですよね。 この本は オリヴィエのこの観察眼が面白く魅力だと思うんですけど人のことこんなにからっと言えるもんですかねえ。

ピカソのオランダ旅行の話。 オランダという所は「霧の多すぎる国」なんですね。 外国って 行かない限り わからないことが ありますよね。「霧のロンドン」は聞いたことがありますけど。またオランダではピカソよりも背の高い女学生が街中を行列しているのは滑稽だといっています。 頭だけ彼より高い「小娘たち」がピカソに接吻をし 彼の膝に坐ったことも。 ここでも当時のオランダという国が見えてきたりします。
ピカソの身長ってどのくらい? 平均的日本人はどうよ。

さいならさいなら



《 2015.04.02 Thu  _  ちまたの芸術論 》