『外骨という人がいた』赤瀬川原平著 白水社 の続きです。
いやあ今度こそ休刊にしようと思いしが、やっぱり。
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ー見ていると、また変なものがあった。これもまた編集後記ふうのもの。第二号の最終ページだ。「スコブル延刊せし理由」。パッと眺めたところでは当たり前にその理由を書いているようなのだけど、よくよく読むとどうもおかしい。ー
私はさっそく自分のファイルのあとがきが、大したことないつまらん「書き」だと思いました。この言い訳の「しつこさ」見習うべきだと反省しているところです。一見真面目そうにみえるこの編集後記は、言い訳に満ち満ちているのです。かめばかむ程言い訳が出てくる。言い訳のくせにためらいがない。
自分のやってることは、鯵の(あじ)のひものぐらいのあっさりぶりで、ためらいも見え隠れして、「つまらん!」と。「とりあえず要件のみ」じゃだめなんよ。
さっそくピーナッツをぽりぽりかじりつつ、「後書き改造」にとりかかりました。
「引き算の美学」は「足し算の美学」へ。あじつけはためらいを排して、へそを笑わせる胡椒をぱらぱらと。
外骨の「スコブル延刊せし理由」は「しつこさ」と云ってしまった私はばかでした。文はしつこいとイヤになるものです。ところがこれは引き込まれていく。
「シカモ早刊は有意の所為、延刊はやむをえざる事情のためにこれあり、延刊の方反って其罪その弊軽きかと存居候」とかえって華々しくなっていくところなど「さすが男の子」と手をたたきたくなる。女に生まれたことが悔やまれる。この男女平等と言われてる時代に、なぜ私はこんなことを思ったのか。言い訳のそれも文学性さえ感じさせる書き方ができるのは、長い長い男の「言い訳の歴史」があるに違いない。
女はかってそういう男の言い訳をでかいふくろで受け止めて、くすくす笑ったりしていたのかもしれない。それは男が言い訳の専売特許をとっていて、女はそれを持っていなかったからかも。ところが男女平等となると、大きなふくろも影を潜めてしまうのではないでしょうかな。男はふくろの中でゆっくりくつろいでなどいられなくなった。
おや?すらすらとこんなことを書いてしまって、どーいうこと?
「後書き改造論」はどうするの?
あしたはどうなるのかな。 さいならさいなら