who am ?I

PAGE TOP

  • 02
  • 06

1ぺーじ

『外骨という人がいた』赤瀬川原平著 白水社 1985年です。
赤瀬川さんが、どのようにしてこの本を書いたのか。このことはこうした本を作る人にとても参考になると思いました。本はとりかかるまで、とても難しいこともあるのですね。内容はきっと面白いはずだと思っても。私はこの本を書き写してみようと思って、ここにあっぷするつもりはありませんでしたので、拾い読みです。でもやっているうちに、自分のことになり、とても興味深くなったのです。

***
外骨がつまらないのではない。凄く面白いのである。明治、大正、昭和と、宮武外骨が雑誌表現の仕事で残しているものは猛烈に面白い。だからそれについて書いてみたいことは山ほどもある。しかし「外骨のことはちょっと」と答えていた。

どう書いていいのか分からない。山ほどもあるはずの書くことを頭の中に陳列しながら、それをどう書いていいのかまるでわからないのだ。 私はその現象に驚いてしまった。書きたいことが書けない。それはままあることではあるが、しかし面白く感じたことをそのまま端から書いていけばいいのに、その端というのがドンドン先にひろがっていって、どこから書いていいのかぜんぜんわからない。つまりAの面白さを書く前にBについて書く必要があり、そのためにはCについても書く必要があり、とするとDについても書いておかなければならない。とそういう具合に、糸口がずるずると深入りしていき、もはや簡単には引き出しようがなくなっている。

私は外骨の雑誌表現の面白さというものを改めて考え直してしまった。私は外骨の表現が面白いので、いままでその雑誌類を古書市などで買い集めてきた。それを友人たちと眺め合いながら「面白い、面白い」と言い合いながら、その文章やイラストレーションのさまざまなやりくちに驚嘆していた。そうやって面白さがはっきりと目に見えてあるのに、その面白さを文章に出来ないとはどういうことか。私の力量の問題ではない。ちょっとそれとは違うのである。  要するに、その雑誌表現の面白さというのが、そこにある雑誌環境や、そのときの人々の日常意識や、その時代背景や、そういった回りの細かい事柄のすべてに深く浸透してからまっているからだと思う。だから糸口を引っ張り出せばズルズルと時代環境が限りなく出て来てしまい、かといってその一部を切り取ってみれば、その面白さというのも切り取られて消えてしまう。  たぶんそういうことだ。

「うーん、しかし、」と答えるほかないのであった。

「・・・・・」

「今度こそは、今度こそはと、私は同じ苦悶を何度も繰り返すことになってしまった。
」それは1970年代という時代のせいもあるだろう。時代はアウトロウの光を求めて、昔の時代に活躍したという怪しげな宮武外骨を知ろうとしてやまなかったのである。

結局は度重なる挫折の末に、結局は本格的な挫折の境地に行き着いたのだった。

もはや宮武外骨のことを書こうと思うのはやめようと決めた。外骨は面白い。でもそれはなまじ文章には書きようもない。  そう決めてからは気が楽だった。

「いやあ、外骨はちょっと・・・」と言い淀むから難しくなるのであって、頭からズバリと断ればいい。「ダメです。外骨は書けません!」

しかしやがて時代は過ぎて、外骨についての原稿依頼の電話も来なくなった。世の中は従順な雰囲気にしずまっていき、アウトロウの光も、アウトのままに沈んでいったのである。私はもはや外骨のことを書くことはないだろうと思い、何年かの歳月が流れたのだった。1970年という年代も、その本体は歴史の彼方に過ぎ去って行き、その末尾の1979年になっていたのであった。

「いや、面白いですねえ。いや、ですからね、そういうことを自由に、書きやすいように書いていただけると・・・」とITから言われることになり

いままでは外骨のことをしっかり書かねばならないという責任感だけがあったのだけど、そんなもの捨ててしまえば意外と楽に書けるのではないか。自分が外骨のことを面白がっている、その自分のことを中心に、外骨そのものはおまけぐらいのつもりで書いていけば、かえって外骨の面白さの特質というものが浮かび上がってくるのではないか。

現物を前に話をすれば、あれこれ挫折することなく、面白さの意味はストンと通じる。活字なしの真白い社説のページなど「うわっ、現代芸術!」などと言ってみんなでおもしろがっている。その雰囲気をそのまま書けばいいのではないか。

「いいですねえ。それ、絶対に面白いですよ。その方がかえって身近なものになるし、読者にも伝わりやすい・・・・」だからその場合は外骨の図版だけじゃなくて、たとえばそこに共通する現代芸術の方の図版もバンバン入れていくとか。
「それは面白いですよ。いやそれでいいですよ、外骨の伝記を書くというわけではないんですから。」 「そうですよね、伝記的な側面はいずれ誰かちゃんとした人が書くだろうから、ぼくの場合はその表現の面白さということだけに限って・・・・」  「ええ、それです。僕らもその外骨の面白さというのがいちばん知りたいところで」
「そうか、なるほどね、むしろ現代芸術なんてもう外骨がやっていたっていう、そっちに重点をもってくりゃいいわけだ」

執筆の計画趣意書、五、六枚

***

Tさんから赤瀬川原平の『外骨という人がいた!』という本を貸してもらいました。
Tさんはかって私のやってることをまとめてみようとしてくれたことがあります。

そのとき、アトリエにあるたくさんのファイルや作品をみて、はじめはどうしたらいいのかわからなかったみたいでした。 そこでTさんはわたしのやってることを現代美術におきかえてみることをやってくれました。

もともとこの話はうちの夫せいが「こいつのやってることは面白いと思うんやけど、多種(子?)多様にわったてるからどこから手をつけたらええんかわからんのよ」というぼやきからはじまりました。

しかし、わたしはこのTさんにも、夫せいにも感謝しなければと、思います。 赤瀬川原平さんがこんな風に何度も挫折しながら、行き着いた「宮武外骨のことをどう本にするのか」という考え。 頭のさがる思いです。 そして、この話の経緯をたどっていくと、それは私のような、小さな者にもかかわるようなことだと思ったのです。

その時代に作品を多種多様に作ってしまう人間をどう扱うのか。
Tさんは先ずその作品を、これはほっておけばなんのこっちゃらのものなんですが、そんなものでも「その時代潮流というものからはずれているわけではない」と示そうとしてくれたのです。

 作り手は無意識のうちにその時代の影響とか流れのなかにいるのかもしれません。わたしはそのことに気付く程、芸術に深い理解はなく、Tさんから示されてやっと知るのでしたが。

 それからだいぶ年月を経て、私も少し勉強したりして、「ああ、Tさんの言ってたことはそうだった」とわかったり。 そういった「示す言葉」は難しいようでも、そんなにわかりにくいことではないというか。

今、だから赤瀬川原平を読んだり、見たりするとすっと入ってきたりして面白いのです。宮武外骨をどう人々に伝えるかということも、自分にあつかましくも当てはめてみると、楽しく元気が出るというものです。

こんどはどうなるか、さいならさいなら


《 2015.02.06 Fri  _  ちまたの芸術論 》