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1ぺーじ

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『超芸術トマソン』のことが書いてあるところを見てみましょうね。芸術新潮、赤瀬川原平の追悼大特集の中からです。

最初のところが抜けてるなあ、「超芸術トマソン」の名の由来であるゲーリー・トマソン(1951〜)(上)はアメリカ大リーグから1981年に読売巨人軍に入団した、いわゆる助っ人外国人です。

大リーグ通算61本のホームランを記録し(少ないです)、鳴りもの入りで来日、前に引退した王さんの後釜として4番に座ります。とあります。ところがふるわず、三振も多く(132個で当時の球団新記録)。赤瀬川さんが高校生のときの話です。スポーツ新聞の見出しに大きく「トマ損」と書かれていたのを覚えている。いやあ、書いてくれますねえ、ちょっと人ごとなんで笑ってしまいましたが。ようするにダメ外人で全く役にたたなかったのです、と。
この言葉を赤瀬川さんは持ってきたのですね。四谷の「純粋階段」は最初の「トマソン」だそうです。なんのための階段か、のぼってただおりるだけのものです。写真をお見せできなくて残念ですが、赤瀬川さんは路上でこれを見つけたとき、その純粋性に驚いて歓喜したそうです。その純粋性はどこから来ているかというと無用性から来ているのです、と。
「それはけっこう重要だと思います。今日はますます有用なもの、意味のあるものしか価値があるとされない傾向が強まっています。そのことは恐ろしいことだと思います。超芸術トマソンはちょっとお遊びみたいな活動に思われる傾向にありますが、あえて全く無用なもの、その無用さが純粋であればあるほど素晴らしいという赤瀬川さんの「価値観」というか「見立て」は、今こそ充分に政治的だし、それこそが芸術の存在理由だと思います。」 またこのままいくと、この文章を追っかけるだけなので、「1ぺーじ」を虫眼鏡で読んでみて下さいね。(植草おじさんの時もそうだったなあ)

「トマソン」の逆は「そもそも普通の芸術教育は自己表現、個性の確立にあるからです。
みんな自分が自分がアタシがアタシがやるのがいわゆる芸術です。」らしいです。
(そういえばわたしも自分が自分がって日記によく書いてたよなあ)

絵を描く気持ちが四角い額縁の中に収まり切らなくなって、キャンバスに筆と絵具、という関係から芸術があふれ出る。その逃げるがごときものをあたふたと追いかけるうち、さびた釘や針金、壊れた電球、破れた古タイヤという雑多なものを「絵」の「具」として手にしてしまう。気がつけばすべての日用品や役立たずのスクラップ類が、キャンバスと筆とえのぐに成り変っていた。(赤瀬川原平他編『路上観察学入門』ちくま文庫)

いやあ!65才にして教えてもらったわ。わたしが布やゴミ拾い(宝探し)でやったことなどは額からあふれだした絵具にかわるものやったんやー!「いろんなことに手を出した」というと、「なんかうつりぎなやつ」でしかないんだけど、こう言ってもらえると
なんかちがうなあ。みなさん「あふれ出たもの」をこれからも見て下さいね。

なんかもう少し赤瀬川さんといっしょにいたいなあ。あした気が変わってなかったら続きをよろしく。さいならさいなら
《 2015.02.01 Sun  _  ちまたの芸術論 》