第六話 部屋と盗み見師と私。~その1~

 

終電間際の車両の中は、様々な表情でごった返している。暗闇の中でまばらになった家々の灯りを切り裂くように、ガタンガタンとけたたましい音をたてて走る電車。そこにひしめく何百、何千という顔も、それと一緒に誰かの家、誰かの前を忙しなく通り過ぎていく。その光景は、外から見ればなんと滑稽に映ることだろう。そして私は今、その滑稽な風景を織り成すひとりの疲れた顔としてそこにいる。しかし、彼らは知らないのだ。終電間際の車両の中は、なんというか、そこはかとなく、いや、相当に、臭いですね。

 

 それは良いとして、今日も疲れた。一生懸命に働いた一日のエピローグは、せめて座席に腰を下ろし、ゆっくりと好きな本のページをめくりたい。それすら叶わず、私は疲れて重くなった身体を吊り革にぶら下げている。そんな私に、もうひとりの自分が静かに語りかけてくる。「このコラム、随分と書いてなかったね。さぼってたんだね。言い訳が大変だね」と。「違う!違うんだ! テレフォンショッキングはいつもより見た気がするし、徹子のお部屋にもよく訪れた気がするけれど、とにかく、一日中、ずっと眠かったんだ!」。叫びそうになる自分を、私は必死に押さえつける。そして、私は目を瞑るのだ。そうして、楽しみにしてくれているみなさんにジャンピング土下座する。

 

3回ほど許しを請うてからすっかり窪んだ瞼を開け、それからそっと眼下の座席に目を落とす。そこにいたのが、彼らだった。

 

ひとりの中年女子と、ひとりの中年男。今回の主人公たちである。

 

 座席に座る彼女と彼、その前で吊り革を掴み立っている私。私たちは先頭車両におり、彼らはその車両の中でも先頭にもっとも近い座席の一番端に座っていた。

私たち3人は、ほとんど100%の確立で初対面。つまり、赤の他人である。そんな私たち3人の中に、当然、会話などは存在しない。彼らは2人とも黙々と携帯電話で誰かにメールを打ち、私はとある随筆小説を読んでいた。しかし、片手で本は読みづらい。ましてや大きく揺れる電車の中だ。ページをめくるには瞬発力が必要となる。ただし、今の私は疲れているのだ。ページをめくろうと吊り革を放した刹那、大車輪のように車両の後部へと転がっていくのがオチだろう。

私は本を読むのをあきらめ、かといって本を背中の鞄へ入れ直すこともできず、何ということもなく再び彼らの方へと目が向いたのである。

 

 まずは彼女の方から紹介しよう。外見的な特徴を誰かの顔を借りて例えるならば、アラレちゃん眼鏡をしているところからして江川紹子、もしくは、もたいまさこ、といったところか。年の頃は50代前半・・・・・・いや、50歳だ。きっと、そうだ。アラ・ファーではなく、アラ・ジャストで50歳だ。彼女には、そういったある種の潔さがある。しかし、彼女は化粧が得意ではないのだろう。濃い目のルージュ、強くひかれたショッキングピンクの口紅は、彼女の顔には正直言ってあまり似つかわしくない。しかし、彼女は幸せそうなのだ。その目に、その口に、どことなく微笑みを湛えている。今日は何か嬉しいことがあったのかもしれない。そうか、デートだったのだ。今、彼女が書きしたためているメールは、その相手に向けられたものに違いない。おそらく慣れない絵文字なども使っているのだろう。そう考えると、私の中にじわりとやさしい感情が湧き上がってくる。

 

 一方、彼の方は体格のよい中年男。年は同じく50代頃で、仕立てのよいスーツに身をまとい、髪は思い切り後ろに撫で付けている。鞄も何も持たず電車に乗っているところを見ると、大手商社の重役か何かなのだろう。彼もメールを打ってはいるが、どこか憮然としたその態度は彼女のそれとは180度違って見えた。

 

 しばらくすると、彼女は近眼なのか、その顔がどんどん携帯画面へと近づき、姿勢は徐々に前のめりになっていった。それと呼応するように、彼は身体をのけ反らせていく。真横から見れば、「X」のカタチに見えなくもないな、そんなことを考えているとき、あの凄惨な事件が始まりの汽笛を鳴らしたのだ。ぷぉぉぉぉぉ~。(つづくんだね)