
『月と六ペンス』角川書店昭和33年初版
というのは、ストリックランドは能弁でなかったからだ。彼は心で思っていることを口で表現するのがむずかしそうだった。まるで彼の心は言葉を媒介として働いているのではないかのようだった。だか、彼の陳腐な文句や、俗語や、あいまいで不完全な身振りから、彼の心が言わんとしていることを察する他はなかった。しかし、別に大したことは言わなくても、相手を退屈させないだけのものが彼の個性にひそんでいた。多分それは誠実さなのだろう。彼は今初めて見るパリに大して気を引かれていないようだった(夫人同伴の時の訪問は数に入れないとして)、そして彼にとっては物珍しい筈の眺めを見ても、一向に驚いた様子もなかった。私なんか既に百回もパリに来ているが、いまだに興奮でぞくぞくする。パリの通りを歩けば必ず、冒険の縁を歩く想いがしたものだ。ストリックランドは平然としている。今になって、その時のことを振り返ってみて思うのだが、ストリックランドは心の中のある幻影に心を奪われていたため、他の物は目に入らなかったのではなかろうか。
その晩、ちょっとした事がもち上った、他愛ないといえば、まあ他愛ない事だが。園居酒屋のうちの一人が私達を見つめているのに気がついた。ストリックランドと目が合うと女はにこっと笑った。ストリックランドの方は女を見てはいなかったらしい。しばらくして女は出ていったが又直ぐにひきかえしてきて、私達のテーブルのわきを通る時、何か飲み物をおごって下さらない、と丁寧に頼んだ。女は腰を下した。私は女としゃべりはじめた。しかし女の関心がストリックランドにあることはたしかだった。あの男はフランス語はせいぜい二つくらいしか知らないと説明してやった。女は彼に話しかけた。なかば身振りで、なかばかたことのフランス語で。どうしたわけか、女はかたことのフランス語の方が彼にわかりやすいと思ったらしい。英語の言い廻しも六つぐらいは知っていた。自国語でしか表現できない事は私に通訳させた、そして彼が何と返事をしたかとしつこく聞きたがった。ストリックランドは上機嫌だったし、いささか面白がってもいたが、無関心であることは明白だった。
「ものにしましたね」と私は笑った。
「べつにうれしかないね」
私が彼の立場だったら、もっと気まずかったろうし、あれほど平然とはしていなかったろう。
女はにこやかな目もと、実に魅力ある口もとをしていた。若い子だった。ストリックランドのどこにそれほどひかれたんだろうと私は不思議に思った。女は欲望を隠そうともしなかった、そしてそれを通訳してくれと私にせがんだ。
「連れて帰ってくれ、と言っていますよ」
「誰も連れてゆかん」と彼は答えた。
私は彼の返事をなるべく感じよく言い直してやった。そのような申し出を断わるなんて少し野暮な気がしたので、金がないため断わったのだと説明してやった。
「でも,私はあの人が好きなの。愛のためなのだとあの人に言ってちょうだい」と女は言った。
その事を伝えると、ストリックランドはいらだたしげに肩をすくめた。
「くそくらえ、と言ってくれ」と彼は言った。
その態度で何と答えたかはっきりわかったのだろう、女はぐいと頭を反らした。おそらく化粧の下で顔を赤らめていたのだろう。女は立ち上った。
「失礼な人ね」と言った。
女は居酒屋から出ていった。私は少々気を悪くした。
「べつに女を侮辱しなくたっていいでしょう。むしろあの女は好意を示したわけなんだからね」
「ああいうたぐいのことには、胸がむかつくんだ」彼は荒々しく言った。
私はしげしげと彼の顔を見つめた。その顔にはしんから不愉快がっている様子が浮かんでいた。そのくせその顔は粗野で肉感的な男の顔なのだ。きっとさっきの女はこの顔にひそむ一種の残忍性にひかれたのだろう。
「その気なら、ロンドンでだって好きな女をみんな手に入れることぐらいできたさ。ここに来たのは、そんなことのためじゃないんだ」
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フランス姉さん 美人だからって 「連れてってくれ」だとか「でも、私はあの人が好きなの。愛のためなのだとあの人に言ってちょうだい」だって。 言ってくれますよね
それを彼はていよくことわるわけでもなく 「くそくらえ」ですからねストリックランドは。 粗野で肉感的なこの男は。彼がゴ_ギャンであるとはきまったわけじゃないですけど(何しろ小説なんですからね)ゴーギャンはどんな顔をしてましたっけ? 鼻に特徴がありましたよね,自画像は決してハンサムだとは言えませんよね。ふてくされてはいる、だけど自画像にそれを表現してましたっけ?などと
きっとさっきの女はこの顔にひそむ一種の残忍性にひかれたのだろう
ここに来たのは、そんなことのためじゃないんだ
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「ずれ」すれちがい 男と女のずれ いろいろ 紙粘土です