「こころ」夏目漱石 先生と私 つづき
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私はその夜十時過ぎに先生の家を辞した。二、三日うちに帰国するはずになっていたので、座を立つまえに私はちょっと暇乞いの言葉を述べた。
「また当分お目にかかれませんから」
「九月には出ていらっしゃるんでしょうね」
私はもう卒業したのだから、必ず九月に出て来る必要もなかった。しかし暑い盛りの八月を東京まで来て送ろうとも考えていなかった。私には位置を求めるための貴重な時間というものがなかった。
「まあ九月ごろになるでしょう」
「じゃずいぶんごきげんよう。私たちもこの夏はことによるとどこかへ行くかもしれないのよ。ずいぶん暑そうだから。言ったらまた絵はがきでも送ってあげましょう」
「どちらの見当です。もしいらっしゃるとすれば」
先生はこの問答をにやにや笑って聞いていた。
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奥さんと「私」のやりとりを 先生と同じように聞いています