「こころ」夏目漱石 先生と私 つづき
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私はその晩のことを記憶のうちからひき抜いてここへ詳しく書いた。これは書くだけの必要があるから書いたのだが、実をいうと、奥さんに菓子をもらって帰る時の気分では、それほど当夜の会話を重く見ていなかった。私はその翌日午飯(ひるめし)を食いに学校から帰って来て、昨夜(ゆうべ)机の上に載せておいた菓子の包みを見ると、すぐその中からチョコレートを塗った鳶色の(とびいろ)カステラを出してほおばった。そうしてそれを食う時に、畢竟(ひっきょう)この菓子を私にくれた二人の男女(なんにょ)は、幸福な一対(いっつい)として世の中に存在しているのだと自覚しつつ味わった。
秋が暮れて冬が来るまで格別の事もなかった。私は先生の家へ出入りするついでに、衣服の洗い張りや仕立て方などを奥さんに頼んだ。それまで襦袢(じゅばん)というものを
着たことのない私が、シャツの上に黒い襟のかかったものを重ねるようになったのはこの時からであった。子供のない奥さんは、そういう世話をやくのがかえって退屈しのぎになって、結句からだの薬だぐらいのことを言っていた。
「こりゃ手織りね。こんな地のいい着物は今まで縫ったことがないわ。その代り縫いにくいのよそりゃ。まるで針が立たないんですもの。おかげで針を二本折りましたわ」
こんな苦情をいう時ですら、奥さんはべつにめんどうくさいという顔をしなかった。
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ここまでくると この二人というか この奥さんは この人に気があるんじゃないの
そんなこと気付かなかったの? そういわれそうだけど でもそれだと などと気をもみながら