「こころ」夏目漱石 先生と私 つづき
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三十分ほどすると、奥さんがまた書斎の入り口へ顔を出した。「おや」と言って、軽く驚いた時の目を私に向けた。そうして客に来た人のようにしかめっつらしく控えている私をおかしそうに見た。
「それじゃあ窮屈でしょう」
「いえ、窮屈じゃありません」
「でも退屈でしょう」
「いいえ。泥棒が来るかと思ってきんちょうしているから退屈でもありません」
奥さんは紅茶茶碗を持ったまま、笑いながらそこに立っていた。
「ここは隅っこだから番をするにはよくありませんね」と私が言った。
「じゃ失礼ですがもっとまん中へ出て来てちょうだい。御退屈だろうと思って、お茶を入れて持って来たんですが、茶の間でよろしければあちらであげますから」
私は奥さんのあとについて書斎を出た。茶の間にはきれいな長火鉢に鉄瓶が鳴っていた。私はそこで茶と菓子のごちそうになった。奥さんは寝られないといけないといって、茶碗に手を触れなかった。
「先生はやっぱり時々こんな会へお出かけになるんですか」
「いいえめったに出たことはありません。近ごろはだんだん人の顔を見るのがきらいになるようです」
こう言った奥さんの様子に、 べつだん困ったものだというふうも見えなかったので、私はつい大胆になった。
「それじゃ奥さんだけが例外なんですか」
「いいえ私もきらわれている一人なんです」
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なんだか 落語を聞いているようですねえ