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アラン先生の授業

アラン先生の授業 82 天馬 つづき

 こうした考察は、広くあてはめることができる。なぜなら、『サモトラースの勝利』(1873年出土。ルーヴル博物館所蔵。紀元前305年、デメトリオス・ポリオクレートの艦隊の勝利を記念して建てられたもの)も、また、翼をもっているからだ。私は、その翼を、あの人間の背中にもくっつけたい欲望を、おさえることができない。しかし、人間の背中は、それを拒む。鎖骨、肩胛骨、肩の筋肉といったものは、その用途が、もう決まっている。その用途は、それらの形のなかに現れている。小鳥の胸骨は、どこにあるのだろうか。小鳥を空中に浮かばせる筋肉の塊は、どこにあるのだろうか。あの女性の肉体のなかには、そうした場所や形を見つけることができない。したがって、あの翼も、女の体にあっては、兜やマントと同じく、くっつくことはむりなのだ。
跳躍や疾走の強力な器官である、あの腰と腿とはどうだろうか。空を飛ぶことのできるものにおいて、そうしたものは、どんな意味をもつのだろう。
したがって、そうした翼は、単に、文学のうえでの存在なのだ。それは、勝利が天翔けり、空中を滑行する、と私に告げる。そう、私に告げるのであるが、私は、その情景を見ることはできない。注文されても、私は、この種の怪物をでっちあげることができない。私は夢からさめたような気がするのだ。なぜなら、夢のなかでは、物体の断片は、どんなふうにくっつき合っていても、かまわないからである。私は、水上を歩む。空中を漂い流れる。手足をちょっと動かすだけで、空中を泳ぐ。夢ほど建築的でないものはない。けれども、そのような虚構が絶対に美しいものたりうる、などとは、私は信じない。よく知られている、あの「聖母昇天図」(バルトティティアン・プーサン、リューベンスなどに、その作がある)が、そうだ。あの人体の絵は、その人体が落ちるぞ、という意味しかもたない。どうみても、それが昇天するとは、私には思われないのである。あの人体をささえている、翼を生やした天使たちは、自分自身をささえることすらできない。これとは反対に、ミケランジェロがデッサンを描いた、あの疲れた奴隷、肩の上に首を垂れたあの奴隷のなかには、じつに、みごとな建築がある。

***

私は、その翼を、あの人間の背中にもくっつけたい欲望を、おさえることができない。

アラン先生は できないで 我慢してられない人なのですね
それを聞くと 絶対無理をこちらに押し付けてはいないことがわかります。鳥については 小鳥を空中に浮かばせる筋肉の塊は、どこにあるのだろう と不思議がり 女性の身体についてはどうなのか それは「聖母昇天図」という絵があるから 考えてしまうのですね。
夢の中では これができているとも。
いい加減になれないアラン先生 お気の毒ですね
69歳で この授業を受けた私ですが 若い時じゃなくてよかった

アラン先生の苦悩には 「私におまかせを」ってぽんと胸をたたきたいところだけど 
《 2018.11.16 Fri  _  読書の時間 》