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ごめんね

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「Dutyよりはじまって」NEKO美術館発

わたしのファイルは 出てきたこと勝負ですね。
というのも いまの私はへなへなで このポール・ティベッツの話のことなど
すっかり忘れかけているからです。
この本を読んだ時 「これからは 戦争や内戦の新聞記事 内戦からにほかの国に逃げていく人たちの記事 ことごとく 切り抜いて 読もう そして保存しよう」と思いました。エノラゲイという ティベッツのお母さんの名前をとった戦闘機に乗って 日本に原爆を落とした 飛行士の一人の兵士の話でした。「Dutyよりはじまって」のはじまってはわたしの出発の言葉だった筈なのです。2001年「Duty_わが父、そして原爆を落とした男の物語」は 2001年 光文社から出版されています。
この本は370ページもあります。わたしにはもう一度「つづき」と打ちながら 皆さんと読むことは出来ません。そのとき感想文を書いていますが いまひとつかんばしくありません。ただ 新聞から切り抜いた 戦争の話は 驚くほど毎日 多かったのです。
原爆が落とされたのは第二次世界大戦のおわり 1945年 今は2017年 あれから72年です。わたしが切り抜いたのは一年間ぐらいだったと思います。
ポール・ティベッツは戦後 原爆を落とす重大任務をなしたのに 人々は わたしのことを ねぎらってくれることもなくなった そのようなことをこの本で言っていたことを思い出しました。人は移ろいやすいものなのだと わたしは 思います。 原爆を落とす任務を その国の人々を これから戦争に行く若者たちを救うためだと 信じて ポールティベッツは飛び立ちました。彼の上司もそう言ったのでしょう。それは命がけの飛行であっても 彼自身は悩みでいっぱいではなかったと思います 。あとはやるべきことをしっかりやる それだけを考えていたに違いないからです。 日本の兵士たちも 任務をまっとうしようと 飛び立っていったのだと思います。 ティベッツは戦後 わかりあえるのは そういう兵士たちだと言っていました。
これはとても 悲しい話の一つだとわたしは思いました。生きつづけていて空しく淋しいことは こういう中にもあるんじゃないでしょうか。
「ごめんね」なかなか言えないんですよね。
それでも わたしの知らないところで 地雷撤去や 農業の援助 その国の人たちと一緒になって やり続ける人たちは 「ごめんね」に通じますね。ポールティベッツの言葉も戦争のやりきれなさを 表現していますね。

いまは高速道路で便利にはなりましたが ニュースを見るたびに 胸が痛みます。
悪いニュースを選んでるんじゃないかと思うほど 多いですね。

何の話でしたっけ
そうそう わたしも「ごめんね」ってなかなか言えない時があるんです。
上の絵は ユーゴーすらビアの子供が描いた戦争の絵でしょうか。きれいな色で
実は悲しい絵を描いているところが ありますね。 





《 2017.10.19 Thu  _  エッセー 》