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生きるとは

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「生きるとは自分の物語を作ること」考える 新潮社 2008

河合隼雄 小川洋子 対談 つづき

厳密さと曖昧さの共存

小川 新宿の街なんか歩いていて思うんですが、超高層の近代的な、一流企業が入っているようなビルもあれば、ガード下の一杯飲み屋みたいなのもある。日本には街自体にも境界線がないですよね。
河合 そうそう、日本は境界線がいろんな点で曖昧な、ものすごく面白い不思議な国ですよ。彼らから誤解されるのは無理ないと思います。
小川 でも、科学技術が限界まで発達してしまった現在の段階になると、むしろ厳密さよりも曖昧さの方が人間を楽にしてくれるんじゃないかなって思いますね。
河合 そのとおりですね。だからこれからは、厳密さと曖昧さの共存をよく考えないかんことになる。ただしそれは、倫理的に矛盾するわけでしょ。でも矛盾したものを持たないかんということです。ガッチリやらないかんことと、曖昧なのと。科学技術を享受しながら、曖昧がよいと言ってはいけないわけですよね、本当はね。
小川 いいとこ取りしているということですものね。
河合 そうそう。だからそれを共存させるような人生観がないかっていうことを、今ものすごく考えているんです。人間は矛盾しているから生きている。全く矛盾性のない、整合性のあるものは、生きものでなく機械です。命というのはそもそも矛盾を孕んでいるものであって、その矛盾を生きている存在として、自分はこういうふうに矛盾しているんだとか、なぜ矛盾しているんだということを、意識して生きていくよりしかたないんじゃないかと、この頃思っています。そしてそれをごまかさない。
 西洋的近代的な考え方と、東洋の古来の考え方は、こう違うけど、この両方をなんとか生きないかんのとちゃうかって、黒板にそういう絵を描いたことがあるんです。するとドイツ人がすぐ質問して、プロフェッサー、すまんけど、二つを一つにした絵を描けないかっていうんです。それで僕は黒板の裏側に行って、「この辺にあるんじゃないかと思うけど、描けませんね」と言ったんです。みんなワーッとなりましたが、平面には描けない。
小川 三次元の世界に行かないと。

***

なるほど といいたいところですが 私は日本人ですけど 曖昧さのよさが 西洋的近代的な考え方とどう違うのか 曖昧さは 日本人の「いやーん、どっちでも」程度のものではない筈で わかってないということは確かです。

二つを一つにしたら 話し合いの時にどううまくかみあうのかとか。河合さんは黒板に描いてドイツ人なんかと考えておられたんですね。惜しい人をなくしましたね。

これはあてはまるのかどうかわかりませんが 原宿なんかに日本のアニメの格好を真似てその西洋的近代的な国の若者を 見受けますよね。かたや 日本人の中学生や大人が 自殺していく。日本のアニメの中に むこうにはない何を感じて やってくるのでしょう。それはまた 別ですか? あの人たちは バイトをして稼いで やってきてるとしたら?
日本の若者はどうやって あの世界につぎこんでるんでしょう?


メイド・ノリーですが 今カラスが がーがーとくちぼそガラスのこえでなきました。
たしか 町中はくちぶとガラスがいるんでしたよね。じゃあここは 山の中?田舎ではありますけどね。ええっとくちぼそガラスが山にすんでて くちぶとガラスが街にすんでるって本にはかいてありましたよね。
上の写真は「秋の陽ざし」です。扇風機も暇そうです。 



《 2017.09.21 Thu  _  1ぺーじ 》