そこですんだということ NEKO美術館発
イタリアの丘の上の小さな村でも
日本の小さな 数人しか住んでいない所でも
もし自分が そこで住む運命にあったら
ひとりでは どこにもいけない 子ども時代というのは
そういうもんじゃないでしょうか
自分はそこからほかの場所にうつって 他の場所での生活の方が
長いはずですが
子ども時代は 大人になった時代より ずいぶん ゆっくりと 長い
どうしてでしょうね
本や映像で 子どもの時に見たような 光景に出会うたび
そこのなかで ゆっくり住んでしまっている自分を
想像することがあります
朝も 夕やけどきもありまして
そこには 昔 多くの村人が住んでいました
だから 今数軒しか 家がないことが
せつないのでしょう
そう想像しながらね
畑のあと なや 柿の木
都会にはない おだやかな 地についた暮らしが
そこには あったのだと おしえてくれます
自分はそういう歴史を もっているので
そんな暮らしをしたことがありますから
そのにおいのする場所に出会うと
それが外国でも日本でも
その景色に 自分は ゆっくり たたずんでしまってるのかも
しれませんね
これは いいくせを もらったものです
みなさんはどうですか