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シューマン

「音楽と文化」河上徹太郎 創元社

シューマン つづき

 その間にもクララとシューマンは次第に親しくなって行った。しかし倣岸な父親ウイークは努めてこの両人の間を割こうとした。彼はクララのピアニストとしての才能を認め、すでにある程度舞台の上で成功した彼女の今後を思えば、この定職のない狂気じみた青年と娘が接近するのはどう考えても好ましいことではない筈であった。彼は娘にことを設けてドレスデンに追いやったり、シューマンを脅しつけたりした。
 1837年シューマンの第一ソナタをクララは公演した。これはシューマンが彼女に献じたものである。今やこの若い男女はこうやって音楽の上で気持ちを通じさせるのが唯一の心やりであった。かくてシューマンは長いこと父親と争ったり歎願したりしたが、遂に法廷に訴えて1840年2人は結婚できた。この年シューマンはその愛妻への今までの心のたけを幾多の歌曲に盛り、百曲の勝れた歌曲が出来た。しかもこの年まで彼はまだ一つも歌曲を書いたことがなかったのだ。
 かくてここに芸術の神に奉仕するにまたとない理想的な夫婦が出来上がった。1840年に至るまでシューマンの創作上の第一期であるなら、それから44年までは第二期で、作品の上でも円熟を来し、従来の如くピアノ曲のみならず、管弦楽曲や室内楽曲にも手をつけた。しかし1844年に病氣が再発し、クララの手厚い看護で快癒したものの、体力の衰えを自覚した彼は次第に痛ましい憔悴を見せ、いっそう反動的に仕事に向かった。それからは時々の演奏旅行を除いてドレスデンにあって仕事をした。彼の唯一の歌劇「ゲノフエーファ」やバイロンの「マンフレッド」だのゲエテの「ファウスト」だのにつけた劇音楽のごとき大曲、交響楽やピアノコンチェルトなども続々出来た。

***

シューマンとクララは恋愛をしました。が クララをここまでのピアニストに育て上げた父親は この2人の結婚に反対します。シューマンは精神疾患の病気を持っていたからです。しかし1840年に2人は結婚できました。それからのシューマンは円熟をきたし、従来のピアノ曲のみならず、管弦楽曲や室内楽曲もしました。しかし1844年に病氣が再発するのですね。34歳のときです。若いですね。1856年に亡くなっていますから
12年の間 その間は音楽活動や楽曲はどうなっていたんでしょうね。
シューマンは病気を持ちつつも反動的に仕事に向かったとありますね。
《 2017.03.13 Mon  _  1ぺーじ 》