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ヴラマンク

ヴラマンク 「LA'ARTMODERNE」 河出書房 昭和29年

シャトーでのヴラマンクは 20歳の頃自転車に熱中していました。ヴラマンクとドランの出会いは 面白いのです。1900年の7月のある夜、パリ・シャトー間の記者が転覆したとき、その記者に乗り合わせていたヴラマンクとドランは近づきとなり、一緒に仕事をすることを誓ったそうです。2人は共同のアトリエとして、シャトーの中島にある一軒の破れかかった家を借りた。そこに愉快な連中が集まり、やがて<ブォーヴ>の発祥地ともなるのです。

ヴラマンク24歳、ドラン20歳です。

1901年、画商ベルネーム・ジュンがヴァン・ゴッホの回顧展を開催した。その会場でドランはマティスにヴラマンクを紹介した。ヴラマンクはヴァン・ゴッホに感激してー我々は生のヴェルミヨンやヴォロネーズやコバルトで描かねばならぬ....と叫んだと伝えられている。

もとよりヴラマンクは「そんな絵」で生活の糧を得ることはできなかった。彼は自転車やボート競漕で賞をかせぎ、ボクシングのノンプロとして金を得、博覧会のキャフェやモンマルトルの劇場でヴァイオリンを弾き、個人教授もしたり、三つの小説書いたのも、この時代のことであった。何事にもレベルの高いパリで20歳の青年が音楽や小説を書いて
生活を立てて行ったということだけでも、彼は誠に豊かな才能に恵まれた青年であったことを称するに十分でないだろうか?

この2人より数年年長のマティスは、すでにサロン・ドートンヌとアンデパンダンの会員になっていたが、1905年、ドランの乞いによって、シャトーの画室に2人の絵を見にきた。マティスはすっかり感激して、その4月に開催されるアンデパンダンの展覧会に出品するように勧めた。ヴラマンクはアンデパンダンに「「ナンテルにおけるセーヌ河」と「人形を持つ少女像」等を出品した。会場ではドラン、マティス、ヴラマンクが一緒に陳列された。それらの絵は火山が爆発したように色彩をぶち上げた表現であったので、大変物議を起こした。しかし、さらに驚くべきことには、そのヴラマンクとドラン出品画が各一点づつ売れたことである。それはトゥールーズの保守党の代議士が買って、大変変人である彼の息子への皮肉な贈り物にするために、アンデパンダンにおける最も変テコな絵を2点えらんだのがドランとヴラマンクの絵であった....というわけであった。こうして彼はパリ画壇に華々しくデビューしたのである。

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ヴラマンクの 絵以外の 自身ができる仕事の多さに 驚かされます。いくら仕事をしたくてもその能力がないとね。
もしかして 彼はスポーツかいけいのところで 体力もあり こんなふうだったんじゃないでしょうか。スポーツもそうですが音楽も小説もできます。20歳の若さで パリというレベルの高い人たちに交じって。
画家というと どちらかというと その手のタイプは少ないと思われがちじゃないですか?

アンデパンダンの展覧会場で 代議士の 変人の息子におくる変テコな絵画が ヴラマンクとドランの絵だったというのは面白いですね。ヴラマンクの絵を今見てみますと 決して変テコではありませんが。ドランの絵はこの画集にはのっていませんので なんともいえませんが。この代議士はなんていって 2人の絵を買ったのかな。

ヴラマンクはヴァン・ゴッホの回顧展を見ているんですね。えらい感動していますね。ヴラマンクやったら そりゃぁ あの目で感動するでしょうね。
《 2017.03.06 Mon  _  1ぺーじ 》