「父オーギュスト・セザンヌの肖像」世界の美術1964 河出書房
いろいろあったお父さんとの関係は「セザンヌの手紙」で読みましたね。
1866年といえば青年期ということになりますね。
この絵についてこういうことが この本の作品解説に書かれています。
「199.5x120.1cm セザンヌは1866年のサロンに落選した。ゾラはレヴェルマン紙にそのサロン評を連載していたが、読者からの抗議のために続けられなくなった。父の読んでいる新聞は、そのレヴュヌマン紙である。
全体は落ちついた色調で、明暗がくっきりとしていて、手堅い画面だが、筆触にうねりがあって、内部的に静かな感じではないように思われる。」
お父さんは確か銀行員だと記憶していたので この本の「セザンヌ 伊藤廉」で読んでみますと
「父のルイ・オーギュストはヴァル県の、貧しくて子沢山の身分の低い職人の家の生まれで、その先祖はイタリアからきている。兄弟たちは早く死んで、成人したのはオーギュストだけであった。だから、セザンヌの父は貧乏をたまらないものに思っていた。
エクスはフェルト工業の最盛期であったから、オーギュストは、30歳のときにエクスへ移ってきて、帽子店をはじめた。商売は苦労も多かっただろうが、ともかくセザンヌの9歳の時には相当の財産もできて、キャバソルという、会計士でエクスの財界人の動きにくわしい人との合資による銀行を設立するまでになった。
母はアンヌ・エリザベート・オノリーヌ・オーベルといって、エクスの生まれである。父の帽子店にいた女工であった。快活で浪漫的であったが、興奮してかっとなるところもあったという。
父の方は、横柄で、しっかり者で、吝嗇(りんしょく・極端に物惜しみする)だったという評判と、その反対に、好ましい人柄だったという噂もつたわっていたらしい。つまり、エクス人の間にはよく知られていないのである。
ポールが生まれてから2年後に妹のマリーが生まれた。それから2年後に、父は、アンヌを正式の妻として結婚届をしている。オーギュストは土地の人ではない。それと結婚前に二人の子どもができていることもさまたげになる。銀行家にはなっているが、成り上がり者というようなわけで、交際はせまかったらしい。のちに、ジャ・ド・ブーファン(大風の通るところという意味)という別荘を買った時にも、成り上がり者の気まぐれと思われていたという。この別荘は、18世紀の建築で、もとはプロバンスの知事の邸宅であったが、ひどくこわれていたものであった。セザンヌはこの家が好きであった。別荘がセザンヌ家のものとなって間もなく、セザンヌはここに壁画として四季の図をかいている。
セザンヌの家は、ともかく地位がきまってきたが、どこかに土地の人と打ちとけていないところがあったようである。これはセザンヌの性格の形成に関係することかもしれない。その晩年に「エクスの人は、はなもひっかけない」という意味のことを言っているが
土地の人がこの画家を相手にしなかったのは、その変屈さだけが因であったか、どうだろうか。セザンヌはエクスを好いていたが、エクス人は野蛮人と思っていた。
エクスは古プロバンスの首都である。むかしローマ人が住み、現代もローマ遺跡が残っていて、大司教管区、アカデミー、法科文科大学のある所だが、街の大きさは、街はずれから他のはずれまで2キロにたりないほどである。セザンヌはここをベルナールと散歩しながら、町幅をひろげる工事をみて、「こんな小さな町に大きな通りをつくる必要はない。こうして古い街のいいところを壊してしまう」と話したことをベルナールが書いているが、そういう古い小さな街であるから、人と人との間には窮屈なことがあったかもしれない。
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セザンヌのお父さんのことを読んでいてつい セザンヌがくらしたエクスという小さな古い街の所までいってしまいました。一度は読んだはずなんですが 興味深かったのです。
お父さんが息子のセザンヌ親子にお金を出し渋った風に書かれていたことがありますが、(これはあくまでもセザンヌ側の手紙で読み取れることなのですが)そういうことも お父さんの歴史をさかのぼって行けば「なるほどなぁ」と。お金の問題は 親子でもそれぞれに温度差があると思ったりしました。
「セザンヌの手紙」を読んだことが この自分の10代の時にみた画集とつながり それはまたいろんなことを知ることになりますね。
若いときに出会えますし 67歳というだいぶ歩いてきた自分ともつながって面白いのです。このことはかってどんなにささいであっても またであった時には「知ってる」とまるで親しいことのようになるのですね