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セザンヌの手紙

「セザンヌの手紙」ジョン・リウォルド編

青年期(1861年−1870年)ー22歳より31歳まで

(解説)ポオル・セザンヌは、1839年1月19日、南仏プロヴァンスのエクスに、銀行家ルイ・オーギュスト・セザンヌ(1797−1886)の息子として生まれた。10歳の時、サン・ジョセフ寄宿学校へ入り、ここで初めてスペイン人の僧からデッサンの手ほどきを受けた。1852年、ブウルボン中学(現代のエクス中学)へ入り、エミイル・ゾラ(1840−1903)、バティストバアユ(1841−1918)と親交を結んだ。この三人は、互いに若い情熱を傾けて詩を吟じ芸術を論じ、友に野や川に遊んで、夢多い日々を溌剌と楽しんだ良い仲間であった。ある時は級友を集めて音楽隊をつくり、セザンヌが喇叭(らっぱ)を吹きゾラがクラリネットを鳴らしてエクスの町をねり歩いたこともあるという。ミュッセ、ユウゴオ、ラマルティーヌ等の浪漫派詩人に熱中していたゾラの感化を受けてセザンヌが負けずに詩作に耽り出したのもこの頃である。なお彼は、学業のかたわらエクス美術館付属の研究所へ通って熱心に絵を学んでいた。
 1858年の初めに親友ゾラがパリの母親の許へ立ち去ったのを機とし、二人の頻繁な文通がはじまるのであるが、僅かに(わずかに)そのうちの若干の手紙が今日残っていて、現存するセザンヌの手紙の最も古いものとなっている。それらの手紙で彼は、土地の近況や、共に遊んだ日の思い出や、青春の情熱、悩みなどを巧みな詩文に托して伝えており、そこには時として幼い気取りや上すべりな詠嘆が()取されるにしてもロマンティシズムの気脈はまぎれもなく通ってい、青年セザンヌの直情多感な資性と侮り難い詩才である。中にはバアユとの合作の手紙もある。そして或る時は、挿入する自作の詩をPoeme
inedit(未発表の詩)と麗々しく銘打ってみたり、語の韻律上の組み合わせの一覧表を拵えてみたり(こしらえる)、5幕物の戯曲「ヘンリイ8世」共作の企てを洩らしたりしているのが散見される。なお、それらの手紙には概ね(おおむね)自筆のスケッチが添えられてある。
 中等卒業に際しセザンヌは、父親の命ずるところに従い、大学入学資格試験の受験準備に就かねばならなかった。当時の心境を、彼はゾラへ宛てた手紙(1858年7月9日附)の中で次のように歌っている。

***

セザンヌの青年期はこのように書かれています。
友とこんなに夢一杯で 若者らしく目立ちたがりやで そんなセザンヌであったということは 後の人間嫌いと言われたセザンヌとはずいぶん違いますね。
私たちも 10代の時代と その後とは 同じとはいえないのが あたりまえのことかもしれません。
しかし、セザンヌは作品においても 人物評においても 俗っぽいコトバで言えば 叩かれることが多かったようです。作品においてはその時代がセザンヌのところにきていなかったということでしょうか。それは ほかの画家にしても ありましたね。

ところが このセザンヌの作品を 時代や 多くの後の画家たちが 後に 彼を認めました。
芸術論といえば セザンヌでしょう。セザンヌ抜きには今はないぐらいな言われ方をされています。
そこから 賞讃とともに彼の癖や性格までまで 取り沙汰されるようになります。
有名になると また そうなるんですね。

ノーベル文学賞のボブ・ディランのことを テレビで見ています。授賞式に出るとかでないとか。30年ほど前から 取材には応じていないとか。

せんべいをかじりながら思うんですけど 
「されど 描き続けた。されど歌い続ける。」
これ すごいですよ。強い精神力だけじゃ いやぁ 情熱 描くこと歌うことに興味しんしん なんでしょうね。まだありますか? 描かずにはいられないことを セザンヌは見つけていた。これはつよいでしょうね。

走り過ぎたら行けません。まだこの本の「ほんの」序奏なんですから。

《 2016.12.12 Mon  _  1ぺーじ 》