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ブロンテ姉妹

「ブロンテ姉妹」その知られざる実像を求めて 中岡洋 NHK 2008年

カウアン・ブリッジ・スクール

 パトリックはマリアとエリザベスを退学させてからも、経済的に無理のない学校がどこかにないものかと探していたが、偶然、幸いにも1823年12月4日(木)、新聞『リーズ・インテリジェンサー』に「聖職者子女学校」の広告が掲載されたのである。
 広告には、この学校がタンストール教区のカウアン・ブリッジにすでに土地を購入してあり、教師も一名専任として雇用されていて、開校は1824年の3月か4月の予定と書かれていた。また重要な学費は「年間4ポンドで(半分は前納)、教科書その他の費用として入学金1ポンド、教師として立つつもりの生徒には特別料金が課せられる」とあった。授業料はクロフトン・ホール・スクールの約半分であったので、学費の安い学校の訴訟事件も耳には入っていたけれども、パトリックは後援者のリストを見てすっかり信用してしまった。
 後継者のリストには模範的作品が女子教育の糧となったミセス・ハンナ・モア(1759−1833)、ケンブリッジのチャールズ・シメオン師(1759−1836)ウイリアム。ウィルバーフォース(1759−1833)、有名な蔵書家ミス・カラー(1785−1861)といった高名な名前が並んでいた。そのうえパトリックの友人であるキースリーのシオドア・デューリー師(1788−1850)がこの学校の評議員となっていたし、理事長のキャリス=ウイルソン師(1791−1859)は福音主義では著名な伝道師であった。
 したがって、この学校は経済的にも良心的であるし、多くの尊敬すべき後継者が名を連ね、信頼度も高いとパトリックは判断して、ついに子どもたちを入学させることを決意したのである。

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ふー 私はどこかの大学で講義を受けているような気がします。
遠い外国の牧師さんのお嬢様方の学校探し。 学資は安くて しかしいい先生方が揃っていて そうなるとここかなぁとか そういう話ですよね。 私はちょっといねむりをしながら 講義はすすんでいきます。
私とはまったく関係ないのだけど ここを通らないと 『ジェーン・エア』にはたどりつけないことはたしか。しかし パトリック父さんはえらいわー。教育パパとはまたちがうんですかね。

きょうはここまで
今日は 寒いですよ。
《 2016.11.25 Fri  _  1ぺーじ 》