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蓮以子 80歳

蓮以子 80歳  北林谷栄 新樹社 1993

初舞台

 私には二つの初舞台がある。前者のそれは取るにたらないものだけど、やっぱり事実上の初舞台なのだから、その意味ではなつかしい。1935年春の創作座という小劇場での「温室村」という芝居だった。
 いま思い出すとおかしくなってくるような話が二つある。
 その一つは、開幕のドラが鳴って舞台が暗くなり、瞬間まったくの静寂におちいったとき、急におそろしくなって、そばでカーテンをあげる気合いをはかっている加藤純という舞台監督に「ネェ、いま帰ってしまったら、たいへんなことになりますでしょうか?」とたずねた。まったく信じられないようなアホウなことだが、私としては真剣だった。加藤純さんは、「馬鹿ヤロウ」とドスの利いた低声で私を一カツして、スーッと幕をあげた。三白眼でメチャクチャな歯ならびの純さんのツバキが私の眼のなかにも飛び、唇の上にも止まった。私はウワーと思い、まったくこれはキタナイな、と思った。その瞬間にすべてがスリ代わって、なぜか胸の早鐘はやんでいて、もはや平気な自分がそこにあり、スイ、スイとそのまま舞台に出ていった。
 次にその舞台で、カイチョウ場と呼ばれる幅のせまい斜面を降りての初登場なのだが、早々にしてよろけて、フレームの硝子と見たてたぴりぴり紙のなかへ足を突っこんでしまい、落ち着いて抜きとったがお客は笑った。平気な顔と、飛び出しそうな心臓とが、舞台の上では同時にあるのだということを知ったー。

***

笑った。わたしは子どもの頃から今に至るまで 可笑しくて笑うと止めるすべを知らない。これはわたしにはとてもこまったことなのです。
この「初舞台」を読んで 一人で笑いの発作に襲われたように笑い続けたのでした。

このぶんしょうのなかには2つの このわたしにとっては重要なことが含まれています。
「ネエ、いま帰ってしまったら、大変なことになりますでしょうか?」
こう北林さんは加藤純という舞台監督にたずねています。いまわたしは映画、舞台、ライヴなど見にでかけることが なかなかできないでいるのです。その場所にじっとしていることが耐えられないと思うのです。そのおもいは理由を聞かれても 良い方法を教えられてもなかなかなのです。

でも この北林さんの一言はほのところをおりたたんで お守りがわりにいつも持っておこうと おもうほどです。

彼女にしては真剣だったわけですがここで監督が「馬鹿ヤロウ」とドスの利いた低声で私を一カツして、スーと幕をあげた。三白眼でメチャクチャな歯ならびの純さんのツバキが私の眼のなかにも飛び、唇の上にも止まった。私はウワーと思い、まったくこれはキタナイな、と思った。その瞬間にすべてがすり代わって....

ここも おりたたんで いざというときには思い出したり読んだりしなくてはなりません。

早々よろけて、フレームの硝子と見たてたピリピリ紙のなかへ足をつっこんでしまい、落ち着いて抜きとったがお客は笑った。平気な顔と、飛び出しそうな心臓とが、舞台の上では同時にあるのだということを知った。

ここも。

わたしは ずっとまえこういうことがありました。歯医者さんにいったとき いつでも緊張しておちつかなくなるのですが 診察室のドアをあけて 数人が口をあけているそのイスの前で「あのいまからトイレに行ってきていいでしょうか」と言いました。その時先生はなんておっしゃったのか 無言だったのか とにかく行きました。
あのとき監督に「馬鹿ヤロウ」と三白眼でツバキをとばしながら一カツされていたら 「ひやーあ」とかいって いすにすわったのかしら いやそこが北林さんと私のちがうところだわ スーと舞台にでていくのではなく おもらししてたかも。
でも 不思議とあの経験でさえも この「ネエ、いま帰ってしまったら、大変なことになりますでしょうか?」とつながって 「ネエ」となってもよさそうで なんていうのかなぁ いいのでした。ここのところに感謝しなけらばなりませんね。

ついでにもう一つじぶんのことを話してもいいですか。
幼稚園のときだったかなぁ とんがりぼうしかぶってみんなと舞台でおどっていたときのこと 足を上げたりしているときに わたしはなぜか舞台からおちてしまったのです。 それで案外落ち着いて もう一度舞台にのぼったのです。ま、それだけのことですが。そのできごとを父兄や先生方が見てたでしょうが それは記憶にありありません。
しかし北林さんは それらの経験が なにかになっているようですが なんですかわたしは いまだに... ごはんつくってこ。

さいならさいなら
 
《 2016.09.21 Wed  _  1ぺーじ 》