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蓮以子80歳

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蓮以子80歳 北林谷栄 1993 新樹社

自画像 つづきです

 祖母の隠居所は、大森の山王下に近いところにあった。その頃の大森は、まだ、閑静で、たしか東京市のなかに編入されてもいなかったはずだ。私は、小松の林にとりかこまれた、静かな一郭にある、祖母とふたり住まいの小さな家から大森山王小学校にかよいはじめた。その家というのは釣り堀の池のなかに座敷を突き出した風情のある家で、その釣り堀の水はよどんで、ときどき鯉がはねた。夜も鯉のはねる音がした。
 ある日、一年生の私が、とっことっこと池のまわりを帰ってくると、池のなかの杭に同年輩の男の子がつかまってこちらを見ている。こちらを見ている、というとなんでもないが、つまりかれは何をしたのだか知らないが、池にはまってしまって、はいあがろうとしていたのである。泥の加減か何かで、かれは動くとよけいにはまりこむぐあいになっていたのでもあろうか。つまり一進一退もならぬという緊張した顔つきで、まるで風呂にでもはいっているように胸から上を池から出して、杭につかまり私をにらんでいる。
 余談だが、この間、新聞で三つだかの子どもが火事を知らせたという記事を読んだとき、私はこの自分の子ども時代(といっても学齢期になっている)を思い出して、やっぱり私は抜けていると思い知らされたものであった。
 その池にはまった坊やと顔を見合わせた私は、そこに立ったまま、あたかも自分も泥に足をとられたように立ちすくんで、やがて、われらふたりのしたことは顔を見あわせ、オイオイと泣くことであった。池のなかと岸辺とでふたりは少しの間、泣いていた。やがて通りかかった人がその子を助け出したように思うが、まったく私は、なぜ人を呼ぶくらいのとっさの気ばたらき(というより本能的行動)ができなかったのだろう。不思議でたまらない。それほどの阿呆でもないのになぜだったろう。
 世俗的な意味での抜けてるでなく、ここに見いだされるのは、何ものかがほんとうに抜け落ちているというコトである。このことは、のちの俳優になってからの私と大いに関連がありそうだ。

***

「つまり一進一退もならぬという緊張した顔つきで、まるで風呂にでも入っているように胸から上を池から出して、杭につかまり私をにらんでいる。」
「その池にはまった坊やと顔を見あわせた私は、そこに立ったまま、あたかも自分も泥に足をとられたように立ちすくんで、やがて、われらふたりのしたことは顔を見あわせ、オイオイと泣くことであった。池のなかと岸辺とでふたりは少しの間、泣いていた。」

このページにきて わたしはこの本が読み進んでいけそうな気になりました。
どうしてでしょうね。この二人の子どもの間にある 子どもにしかなさそうなことを受け取ったからでしょうか。
私ならどうしてるかなぁ。そのまえに大人の私は泣きそうになるのです。
だまっているこのふたりの光景にね。

俳優の北林谷栄さんの演技の中には どこかこういう経験が生きているのでしょうか。

さてこのさなかにあって 突然ですがNEKO美術館発です。
自分の絵を切り抜いたことがあるんです。それを再び白い画面の上に まるで植物を植えるように 置くのです。それは新鮮で面白かった。切り抜くことはよくやっているんですが 自分の絵を切り抜くのは ちょっとね。でもいちどやっちまえば へいきというか
ちょっとからから顔を出した自分。

話は変わりますが 「アガリ症を7日間で克服する本」という本があるんです。
そのなかに いま自分が尊敬するというか なりたい人物をみつけてまねる そんな方法があるというのです。
それでそんな人をさがしてみました。まず女優さん ハリウッドの。ところが彼女の名前が出て来ないので。 彼女は落ちついていて 笑顔が自然です。
次にドストエフスキーの翻訳をしていたスヴェトラーナという女性。 彼女をDVDで見たとき(たぶん)自分の仕事にじっくりととりくんでいることと、頑固そうな所、そして落ちついて自分のやっていることを話す姿。そのとき84歳。

あなた 笑いましたね。
でもきっとそのうちその女優さんの名前を思い出すでしょうし スヴェトラーナはどうしましょう。

いずれまた



《 2016.08.30 Tue  _  1ぺーじ 》