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ミヒャエル・エンデ

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「ものがたりの余白」エンデが最後に話したこと ミヒャエルエンデ(田村都志夫 聞き手)岩波書店2009

つづきです

ーほんとうにそうですね。さきほど、現実と虚偽という言葉がでました。文学は虚構であり、したがって、まずは虚偽なのですが、文学作品にも、その作品が持つ現実がありますね?

エンデ 文学には現実があります。ピカソも話していますね。このピカソに関するステートメントは、わたしの『メモ箱』(『エンデのメモ箱』)にも入っていますがー芸術が真実ではまったくないことはみんなが知っている。芸術は嘘だ、が、この嘘は、わたしたちに真実を見せてくれる嘘なのだ。
 芸術が嘘だから、わたしたちはそれを通して真実を見ることができる。それが虚構だと、わたしたちは知っているからです。それを忘れたときには、芸術は猛毒になってしまう。それは善悪に関しても同じだし、ほかのこのようなカテゴリーでも同じです。
 実を言えば、悪とはなにかということを、わたしたちが体験できるからこそ、善がなにかを、わたしたちは体験できるのです。あるいは、束縛されていることがなにかを体験することで、自由とはなにかが体験できる。つまり、わたしたちは常に逆のマトリックス(母質)が必要なわけで、その母質に反発することで、その反対のことを、わたしたちは体験するのです。しかし、これは母質が逆であることを前提にする。

***

ここに書いてあることは 「芸術は嘘だ、が、この嘘は、わたしたちに真実を見せてくれる嘘なのだ」
そうなんですか?そんなこと67歳の私が言ったらわらわれるかなぁ。
「実を言えば、悪とはなにかということを、わたしたちが体験できるからこそ、善がなにかを、わたしたちは体験できるのです」
ふむ 
「束縛されていることがなにかを体験することで、自由とはなにかが体験できる。つまり、わたしたちは常に逆の母質が必要なわけで、その母質に反発することで、その反対のことを、わたしたちは体験するのです。しかし、これは母質が逆であることを前提にする。」
ほんまや!とくに自由と束縛に関してのはなしがわかりました。体験的にうなずきました。


ところで この初めの写真はコラボレーションです。
私が子供の時から使っていたお茶瓶です。毎日使うものは 囲炉裏をつかっていた 祖父の時代から(母から聞いた事があるからです)づっと使い続けていました。真っ黒なのは囲炉裏で使っていたからでしょう。母が信州のわたしたちといっしょに住むことになったとき この茶瓶は持って来ることはなかったのですが 何年か空き家になっていた間に私がそれを見つけて持って来たのです。祖父母といえば(父方)明治41年生まれの父の父親です。祖母は江戸時代の武家の娘であり 明治という時代に移行していった人々です。
このおちゃびんがいつ誕生したのか 親に聞いておけばよかったと思います。そうか兄に聞いてみよう 手紙でね。長々と喋りましたが。
自分の絵はともかくこのおちゃびんの何という迫力!

まったく関係が見つけられない写真とエンデの言葉ですが

さいならさいなら


《 2016.08.10 Wed  _  1ぺーじ 》