蓮以子80歳 北林谷栄 新潮社1993
自画像
わたしはよく、おばあさん俳優などと言われる。おばあさんになる苦心は?
おばあさんにふんするのにどんなふうに研究していますか?
インタビューといえばかならずといっていいほど受ける質問はこれだ。苦心は、してるといえば苦心だらけだし、してないといえばしてないことにもなる。研究といってもこれという研究なんてりっぱなことはしたことがないし、また物心ついたときからじっと目を注いで研究しつづけてきたともいえる。わたしは祖母に育てられ、その祖母を深く、強く、切実に愛しつづけたからである。
話によれば祖先は増田右衛門尉長盛という豊臣方の大名で、これはだいぶん遠いが、祖母の父は金沢丹後藤原義久というアンチ幕府派の小大名であった。江戸幕府との間に双方無言の了解のようなかたちが成り立って、この曾祖父は表向き徳川の御用達の菓子司という体の、武家の格式だけをゆるされた一種の変則的な商人と改まった。私の祖母はこの家の二女であり、当時渡米中であった西洋医ヘボンの門弟である尾台某に嫁した。その祖母が若い蘭学医の夫にはやく死別し、実家に戻り、心ならずも二度目の夫を迎えさせられた。それが私の祖父にあたる人で、これは美濃の貧農の五男で江戸に奉公に出、口入れ桂庵からこの店に連れてこられて、何年となく汗水たらして働き、その苦労と商才を買われて三番番頭までのし上がったという塩原多助タイプの人間なのである。
つまり女大学式の武家的教養と、加うるに多少の洋楽風の啓発を若い蘭医の先夫から受けた祖母にとっては、立身出世と、蟻のような動物的勤勉と拝金を志とする祖父との結婚がどんなに苦痛であったか察しられる。
祖母は生涯を夫を厭い抜いて終った。私が幼くて、まだ祖母のひざのあいだに足をさし入れて暖めてもらいながら寝付くほどの幼さであったにもかかわらず、祖母は私の頭をなぜながら、自分にともなく、私にともなく、よく言ったものだ。「この方のところへならお嫁に行きたいと思う方のところでなきゃ、決してお嫁に行っちゃいけませんよ」
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北林谷栄はこういうおばあさんの所で育てられたんですね。この本は途中から読んではいけませんね。だって彼女はどうしてお母さんに育てられなかったのか それともたまたまおばあさんに可愛がられたシーンがここのところなのか わかりませんものね。
でもこれで彼女がどんなによくおばあさんを観察していたかがわかります 愛情を受けながらね。
おばあさんはさいしょのご主人はやくなくし、二番目では立身出世と動物的勤勉と拝金を志とするご主人だった。それは苦労だったわけで。塩原多助タイプといわれましても わたしにはわかりませんが。
「この方のところへならおよめに行きたいと思う方のところへでなきゃ、決してお嫁に行っちゃいけませんよ」
その時代にこういうことを孫にいうおばあさんは女性のみかた。次はどういうことがかいてあるのかなぁ
そうそう上の写真は 古い布ばりの入れ物でつくられた屋敷のつもりです。ただいまアトリエをちょいじ(そうじのこと。少しだけずつ)中。
さいならさいなら