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ゴーギャン

印象派時代 福島繁太郎著 昭和18年 光文社 つづきです。

ゴーギャン

 ゴーギャンのタイチに到着したのは、1891年の6月である。ここの首都では幻滅の悲哀を感じた。彼が逃れた白人文明のグロテスクな模倣でしかなかったからである。彼は更に變地にはいって土人の小屋に住み、原始的生活をはじめた。
 壮大な自然の前ではヨーロッパで練習した技術は通用しなかった。印象派はイル・ド・フランスの綿のように柔らかい雰囲気の中に生まれ、又これを表現するに適当な画風であったが、熱国の熾烈な太陽の下にあっては不適当なることを免れない。彼は当初においては相当に苦しまざるを得なかったが、ついにこの困難を克服して独特な表現様式を獲得した。
 広々とした筆触やだいたんな色調、大がかりな構図へと自然に導かれて行った。彼がブルターニュ時代においては、この作品に現れた所を見ると印象主義をまだまだ清算し切れぬところがあった。色彩の単純化も完全ではなく、コントラストもさほど大胆ではなかった。
 2年4ヶ月の後、多数の作品を携えて意気揚々とパリに帰った。経済的には相変わらず貧乏であったが、体力的には非常に若返って見えた。
 1893年の11月ドュラン・ルエル画廊で作品を展覧した。観衆はまだゴーギャンの芸術を理解しなかった。張り切って帰ってきたゴーギャンは、全くがっかりしてしまった。
 美術館はゴーギャンの出発前の約束に反して、一点も買い上げなかった。局長が変わったからだ。新局長は印象派の敵、否すべての新興画家の敵、ルージョンだった。くだらぬやつがたまたま官職にいると、正当な人民がどれだけ迷惑するかわからない。一国の文化がどれだけ阻害されるかわからない。ときには国運さえも危殆(あやういこと)に瀕することがある。
 一般売れ行きもおもわしくなかった。経費さえろくろく償えぬという惨めさであった。ところが偶々親族の遺産が少し転げ込んできたので、一先づ息がつけた。
 パリにアトリエを借りて一時は落ちついたが、結局ゴーギャンの芸術はヨーロッパでは育ち難かった。かついろいろ面白くないことが重なったので、作品の全部を売立て、僅か数千フランの金を握って1895年の4月、更にタイチに旅立った。そして再び永久に帰って来なかったのである。


「印象派はルイ・ド・フランスの綿のように柔らかいふんいきの下に生まれ、又これを表現するに適当な画風であった」
そうなんですね。絵はその風土や空気のなかでうまれるものなんですね。そして人々も うけいれる。日本の浮世絵版画がパリで受け入れられたのは こういうことからすると どうしてなんだろう。
そのころのヨーロッパの人たちは原住民の人たちをどういうふうにとらえてたんだろう。そういうところにぶつかりますね。そして明らかに違う宗教観。フランスの官憲なんか 原住民を差別していましたね。そこにこういった表現を見せられて 買い手が現れなかった。こういう絵を理解されるまで どのくらいたったのかなぁ。
 しかしゴーギャンは自然に導かれるようにして その世界に入り込んで行ったのですね。
「ゴーギャンはあいかわらず貧乏であったが、体力的には非常に若返って見えた」
そうなんですね。自分の思う表現ができているってことと その土地の空気が彼を若くさせたんでしょうか。

ゴーギャンは結局ヨーロッパに帰ることはできなかった。そこで病のために死のうとも
描きたいこと 信じることが描けた これはゴーギャンにとっては幸せであったと。
そのために家族の理解は得られず 悲しませ その代償は大きかったようですが。そして病。

さいならさいなら
《 2016.06.20 Mon  _  1ぺーじ 》