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ゴーギャン

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コレクション瀧口修造 みすず書房 1991
上の絵や写真は「世界の美術」「イ・オラナ・マリア」メトロポリタン美術館
写真は5人の子どもたちに囲まれた、妻メット うしろに立つのがアリーヌ

 タヒチから約259里はなれたドミニック島は、白人といっては二、三の商人、数人の憲兵、牧師と司教、総督府から出張している役人たちだけで、マオリ人はわずかに千人にすぎなかった。しかもヨーロッパ人はこの平和な島に癩病と梅毒とアルコールと、更に二つの反目する宗教をもたらしたのだった。つまりカトリックとプロテスタントがこの小島の上でしのぎを削っていたのである。そしてその上に憲兵が暴威をふるっていた。植民当時、このマルキーズ諸島には一万人の原住民がいたが、ゴーギャンが到着した頃には二千人を数えるにすぎなかった。しかも原住民はこの島の土地をひとかけらも所有していなかった。この島の大地主は、司教であり、土地を借りたり買ったりするためには司教に取り入らねばならない。島についたゴーギャンも六百五十フランでアトリエの敷地を手に入れるまで、一カ月間荷物を海岸に置いて、神妙に教会のミサにかよったのだった。もちろん彼は教会の神を信じてなかった。彼は土地を獲得し、家を建て、必要な手続きをすませるや否や、「危険人物」としての本性をあらわしはじめた。毎年七月十四日は島をあげて祭りの行事が行われる。ゴーギャンは子どもたちの歌の競技会の審査員を依頼されたが、かれは一等賞をカトリック経営の学校の生徒と、ポール・ヴェルニエ牧師のプロテスタントの学校の生徒とに仲良く分けあたえた。しかし島を牛耳っていたのはカトリック教であったから、かれはたちまち不敬者扱いにされ、教会ではゴーギャンに近づいてはならぬと説教した。かれはその報復として、司教とその情婦の似顔を木彫にして庭に飾りたてた。
台座には「バイヤール()下」「テレーズ」とそれぞれ刻んであったので、住民たちはそれを見て大いに笑った。

***

「ヨーロッパ人はこの平和な島に癩病と梅毒とアルコールと、さらに反目する宗教をもたらしたのだった」
ドミニック島はこのように植民地にされていたというわけなんですね。土地を奪い 宗教をおしつけ この原住民は たたかうこともままならず 不自由に暮らさなければならなかったんでしょうか。日本もそういうことをやっていくようになるんですね。

ゴーギャンはその様子をつぶさに見たわけなんですね。しかし 病気は原住民にうつり その原住民がヨーロッパ人にうつす ゴーギャンだってそうなりましたね。
牧師は カソリックとプロテスタントを仲良くさせることはない それが子どもたちのことであっても。そこはカソリックが牛耳っている所だったから そのどちらにもくみしなかったゴーギャンを不敬者あつかいにする。神の教えとかいいながらも そこは人間ですね。女遊びもしている。

そんな土地はきれいで 珍しい鳥なんかがいる楽園。
そんななかでゴーギャンは描く。
上の写真はゴーギャンの5人の子供と妻メット。しかしこの画家の情熱はすごい作品を生み出しはしましたが この家族は大変な目にあっていますね。妻メットは最後まで夫を許さなかった。

さいならさいなら
《 2016.06.05 Sun  _  1ぺーじ 》