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ゴーギャン

コレクション 瀧口修造 1991 みすず書房

 ゴーギャン

 こうしてゴーギャンは1895年の7月にタヒティに上陸している。こんどは大西洋岸プノアウイアに住んで、ふたたび原始生活に入る。かれはタヒティ風の大きな家を建てた。「アトリエの窓のある藁葺きの家、二本のココの幹に彫ったカナカの神、花の咲く灌木、馬と馬車を入れる小屋....」こうしてパリからもってきた金をまたたくうちに費い果し、植民農業金庫から腰を低くして高利の借金をしなければならなかった。しかし作品はいちじるしい展開を見せて、どこか神秘と巨らかさといったものを具えてきた。「マリオの古代信仰」に心酔して、宇宙と大地の精にふれようとし、銅色の皮膚の女たちを神々のように描きはじめる。しかしかれの健康は「日毎に崩れて」ゆく。「くじいた足は僕を極度にくるしめ、二つの傷は口を開けたまま医者も閉じる術を知らない。暑い国では容易ではないと見える」と書いた。かれの足は悪質な湿疹で覆われていたのである。さらに金の心配が倍加する。数カ月食うために五百フランを借りねばならなかった。「自分とヴァヒネとは月百フランで生きている....乞食をするのはつらい」とも書いている。その女もかれから逃げた。
娘アリーヌの死。妻メットとの完全な断絶。1898年、かれは山に入って鎮痛用の砒素をあおるが、死にきれない。この毒がながく残って、かれを苦しめることになる。
いよいよ緊迫したかれはパペーテの行政庁で、写字や製図の仕事をして一日6フランをかせぐ。パリではようやく絵が売れ出だし、ヴォラールとのあいだに一年最大限25点に対して月3百フラン送るという契約が成立するが、送金は不規則で履行されず、かれを焦燥に駆り立てるばかりであった。
それでもヴォラールから9点の代として1800フラン送られたので、どうやらパペーテのどん底生活から荒れ果てた古巣に戻ることができた。
1899年にかれは「レ・ゲープ」という週刊新聞に毒舌を振るい、植民地の偽善と不正に当たり散らしたが、ついで「微笑、悪口新聞」を刊行、みずから文章と挿絵を執筆したが、結局多くの敵をつることになり、かれはふたたび無一文になった。
1901年4月、タヒティに悪性の流感が蔓延し、彼も倒れて入院する。舟が入港しないので物価はパリの倍にはねあがった。「僕はいま貧乏と、何よりも病気と、ひどく早すぎる老衰とで、地にたたきのめされている。僕は自分の仕事を終えるまで、いくらか猶予を与えられるだろうか。とてもそんなことを望む勇気がない。が、とにかく来月僕はマルキーズ諸島にいって最後の努力をしてみるつもりだ」とシャルル・モリスに書いている。
マルキーズがタヒティよりももっと原始的なところだと聞いて、矢も盾も堪らなくなり、すべての持ち物を売り払ってタヒティから脱出をこころみるのである。

***

このゴーギャンという人は すぐお金を使い果たしてしまいますねぇ。なんてこといいたくなったりしますがどうなんでしょう。
しかし絵は巨きく展開していくんですね。二ついいことありませんね。
けがや病気も暑い所ではなかなかなんでしょうか。流感、わたしはよくわからないのですが タヒティというところは 常夏なんでしょうか。とすると夏風邪だ。夏風邪はしつこいですからねぇと極めておばさん的な物言いをしてしましましたが。
そして週刊新聞に毒舌をふるい 悪口新聞まで刊行してしまいます。
いろんなことで崩壊していくわけですが 地にたたきのめされるも 自分の仕事を終えたいという願い。そこはすごいですね。

「マリオの古代信仰」宇宙の大地の精にふれようとし、銅色の皮膚の女たちを神々のように描きはじめる

さいならさいなら
《 2016.05.27 Fri  _  1ぺーじ 》