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さんざんからはじまる

Mr.立岡光廣の2016年4月の芸術論状況

さあ いってみますか

現代美術と哲学

 現代美術は僕の中では80年代に終わってしまった美術表現です。
マルセル・ジュシャンは「美術作品にも寿命があって、それは20年程で、後は運がよければ歴史になる。」と言っています。
だから若い人たちが現代美術に無関心であったり、単なる現象にすぎないような作品に反発を感じるのは理解できます。

 だけども今哲学を目指そうとするなら、少しは現代美術に触れてほしいのです。

なぜなら現代美術は20世紀とゆうとても高度な文明の中で、時代の要請によってうまれた美術表現だからです。そしてそれは20世紀にうまれたさまざまな哲学や思想と影響と刺激の中で併走するようにしてうまれました。

 そのことにまっさきに気付いたのがディシャンです。

彼のレディーメイドな作品や観念アートといわれる一群の作品が創られます。
その後、革命前後のロシアで構成主義やロシアアバンギャルドといった作品がうみだされました。
戦後のアメリカでは抽象表現主義やポップアート、ミニマルアートといわれる作品が創られ、それに呼応するように日本でもさまざまな美術運動や現代美術作品が創られました。

 これらの現代美術といわれる作品をひとことで説明すれば、美術とゆう概念を変えていった(もしくは拡げていった)美術行為といえます。いいかえれば美術とゆうものに新しい概念を与える事が創作になったのです。そのことで、何が起こったかといえば、表現のっ自由度が増し、美術以外の他のジャンルと深くかかわることができたのです。

いわば美術という狭いタコ壷から解放されたのです。それは経験したことのない新しいものの見方や、多様な視点でものを見たり感じたりする経験との出会いでもあります。
 クソつまらない日常を揺さぶり、ほんの少し楽しいものにしてくれます。
僕のような者が物理に興味を持ったり、退屈きわまりない言語学や哲学とゆうものに魅せられるのも、現代美術というものの経験からきています。

 哲学もまた哲学とゆう古いタコ壷から抜け出さなければ、今の時代機能はしないような気がします。
 ほんとうのところ、哲学や現代美術なるものが、ビートルズやバッハの音楽を聴くように楽しんでやれたらと思うのは、僕のちょっとした理想です。
偏見や固定概念にとらわれず、素直な気持ちでこの世界で創られたものと、表現されたもの、そしてその歴史を知ることは豊かな感情の喜びになるはずです。

***

「現代美術と哲学」の話ありがとうございました。
立岡さんや夫がこういう話をはじめますと 日頃つかっていない頭の部分を回転させられるようで 大変です。頭の調子ももうひとつなのでおてやわらかにお願いします。

そういえば うちの読書会に来ているKさん 若者ですが はじめてみえたとき
「ぼくは本をあまり読んだ事がないので そのおもしろさを知りません。ですからここで少しずつ知りたくてきました」というようなことをいわれたと思います。
その彼の意見が 素朴で新鮮な入り口を表現してくれたりして いいのです。

彼のように 哲学と現代美術について 時間をかけて 語ってくださいよ。少しずつね。
ゴッホの絵がわれわれに語りかけてくれるものがあるとしたら 十代の私はそんなゴッホのことを「絵を希望を持って描いていても さて 人間関係で うまくいかないのは どうしたもんかな」とこれは人生鉄分が足りないのかな ちゃうちゃう人生哲学という哲学とかかわるのかな」とか自分が感じたところから 話に乗ってみたいな。
便器を「泉」と題して出品したデュシャン このまえ芸術新潮で真面目に読んだはずなんだけどな。もうどうして歩くのはおそいのに忘れるのは早いんだろう。
ふむ、デュシャンは便器というちょっときたないとおもわれがちなものを 美しい「泉」というふうに持っていきましたね。 この大きな転換が「はっ」とさせ しかしとうじは不評につきたしかデュシャンは持ち帰ったんですよね。これがきれいなものどうしのちょっとした転換だったら 「あーびっくりした」ということにはならないんでしょうね。
頭に刺激をドンと与える これ哲学とかかわりがありますか?

そこらへんに現代美術と哲学がごろごろ転がっていたら.... みなさん広い場所で 「ころがる現代美術と哲学」と題して.。(未完)

わたしはこの「もの」を見る上での転換は よく写真を写す時に やってましたね。
もしかしてその時「哲学」もやっていたのかもしれませんぜ。
デュシャンの流れをくんでるのかも。この芸術家も 最初はさんざんでした。

さんざんからはじまる

さいならさいなら
《 2016.05.01 Sun  _  ちまたの芸術論 》