世界の美術 ピカソ 河出書房1963 <台所> 油絵
「古典主義への変貌」植村鷹千代 の続きです。
1917年にピカソはジャン・コクトーに誘われてローマに行く。ディアギレフと3人でロシアン・バレー "バラード" を上演するためであり、ピカソは舞台装置と衣装をひきうけてキュービックな作品を制作して好評を博した。そして、このイタリア旅行が機縁になって、パリに帰ってくるとまた突如として古典的な写実の画風に変貌した。10年間無関係であったかにみえた写実が復活した原因には、ローマ旅行でイタリアの古典に触れたこと、それからピカソはこの旅行でロシア・バレー団のダンサーであったオルガ・コクローヴァと結婚したが、その婦人への愛情が直接の原因ではなかったかといわれている。ともかくピカソは、ここで再び完全な虚脱をしたといえる。1917年の<ピカソ夫人>は多少アングル的様式がみえるので、アングルへの復帰などといわれることもあった。 1920年以降になると、人物像から直接ギリシャ彫刻やギリシャ神話にたいする関心が高まり、それから1924年までの新古典主義時代と呼ばれる期間には、ギリシャ彫刻的な量感を強調した典雅で健康な名作が多数制作されている。<二人の坐せる裸婦>(1920年)、<母と子>(1921年)、<古典的な頭部>(1921年)、<牧神の管楽器>(1923年)<白衣の女>(1923年)をみると、この期間の特色がよくわかる。
スタインはこの時代を、ふたたび訪れたアルルカンの時代と呼んでいるが、過去のそれに比べてずっとピカソは大人になり充実していると言っている。明るく健康な写実の画面を指す回想なのであろう。しかし、このピカソの急変については、当時キュビズムの造型主義の行きすぎにたいして古典に帰れという声が高まっていた情勢も、忘れることはできないという意見もある。
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1917年ピカソはジャン・コクトーに出会っていますね。そしてロシアン・バレーのの"バラード" のための舞台装置と衣装をひきうけ、これがキュビックなさくひんとしての経験になるわけなんですね。これはローマでのことです。イタリアの古典に触れ、ダンサーのオルガに出会っていっしょになったことが パリに帰ってからも新古典主義と言われる作品をうみだし写実的にもなるわけですね。たしかオルガはピカソに「わたしとわかるような絵を描いて下さいな」といったとか 前に読んだことがあります。またオルガは息子を生み 確かポールでしたよね ふつうの(キュビズムではない)息子を描いています。いろんなことが作用して「あれ ピカソの絵変わったね」というふうになるのですね。ピカソはその生活のなかや ジャン・コクトーとの出会い イタリアの古典に触れて変わっていく 自然ですね。その時の感動にまっすぐで。でもやがてオルガともうまくいかなくなる それは女性としてはこまりますよね。
この時代をスタイン女史は「ふたたび訪れたアルルカンの時代」と呼んだそうですが 本人はあのころよりずっと充実しているといっていますね。
世間でも キュビズムが流行しすぎたんでしょうか 揺り戻しがきたこともあるんですね。表現の世界 ゆりもどし そうなんですね。10年間キュビズムだったんですね。
新古典主義といわれてた時代のあの手や足のおおきさ 10代のわたしは なんか変だなと思いながらも 圧倒されたのを覚えています。
さいならさいなら