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ゴーグ

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『印象派時代』福島繁太郎著 昭和18年 光文社の続きです。

ゴーグの芸術の本質

 以上のごとく技法的には印象派に負う所多いにも拘らず、自然観照の態度はアルル時代以後異なったものになった。
 アルル時代にはパリ時代の感覚的自然主義を清算して、感覚的記述に依り自然の真実の姿を捉えんと(とらえんと)するよりも、自然に托して自己の精神状態を表現する主観主義に一転している。
 モネーの感覚的自然主義の感激を極度に推し進めたものがゴーグであり、感激を極度に推し進めた結果、自然の束縛を超越して無意識的に自然主義を離脱し、自己の感覚的特性をを表現する主観主義に到達したものである。
 ゴーグは感性が特に強烈でまた極めて性急なる作家であった。彼の作画は即興的であり、あわただしい直観による興奮を画布にたたきつけたが、それは決して独善的なものではなかった。一面において対象を注視する態度は極めて執拗であり、デッサンを重視したことは特筆すべきである。修業時代から素描には非凡の才能を現していた。対象を極めて正確に、力強く、しかも驚くべきほど短時間に手っ取り早く仕上げる才能に恵まれていた。彼のデッサンの重視はすべての時代を通じてのことであって、昂奮(こうふん)の最も甚だしかったサン・レミィ時代、オーベール時代においてすら、デッサンをとることを
怠らなかった。
 ところがゴーグの模倣者はまだ物の形もとれないくせに、自己の情感のためになぐり描きした。デッサンもできないものが情感を即興的に画布にたたきつければ、それは独りよがりなでたらめに過ぎない。往年我が国に横行したる日本フォヴィズムのごときは、その最も愚劣な一例であるが、これらの愚劣な模倣者のためにゴーグの芸術がどれほど誤解されたかしれないのである。
 即興的な性急な作画方法は、ゴーグのごときデッサンの並びなき天才にあってのみ許さるべきものである。

***

日本でもゴッホの模倣者はこのようにたたかれていたわけですね。「デッサンもできないものが情感を即興的に画布にたたきつければ、それは独りよがりなでたらめにすぎない」と。そうですか。福島繁太郎さんはいっせきぶってますね。私も「きみデッサンは勉強したの?」といわれるなあ。絵の基礎があって はじめて絵画ちゅうもんは成り立つのだよ。たしかに。うるさいひげおやじやろなあ この人は。わたしはしかし 「はい」とおとなしくこのおやじさんのはなしを聞いてみよう。
というのはね わたしはよくこのデッサンがはやく思い通りに描けて それから色塗りに取りかかることができたら もっといいのが描けたやろなあと思うんですよ。これは自分の技術のなさ つまりはやく対象をつかめないし とても時間がかかって疲れるんです。
よみかきそろばんじゃないですが、デッサンは勉強しておきたかったなあ。

なぐりがきか ゴッホはなぐりがきに見られたんやなあ。あんなに筆をていねいに置く人っていないんちゃう?そう思うこともありました。はやく対象にせまりたいから気が急く人ではあったと思うけど それにしても せいてもデッサンがしっかりはやくかけるからできることよね。いいなぁ またはじまった。

さいならさいなら
《 2016.02.02 Tue  _  1ぺーじ 》