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ブロンテ姉妹

『ブロンテ姉妹』その知られざる実像を求めて 中岡洋 NHKカルチャーアワー2008の続きです。

第3回
束の間の幸福ー幼い子どもたち

リヴァセジ、ハイ・タウン

 パトリックはマリアと結婚したとき、デューズベリから8マイルにし(直線で6キロ)にあるハーツヘッド=カム=クリフトンの司祭として年俸62ポンドを与えられていた。彼は弁舌さわやかな説教師で聴衆の心を魅了するのがつねであった。その名調子の説教は、日曜学校の生徒がわざわざ8マイルの道のりを歩いて聴きに来るほどだったのである。
 それにもかかわらず、パトリックは世間に対してはみずからを強く主張することはなかった。彼の生き方はまさしく不器用であったと言わざるをえない。パトリックの友人の一人、ウイリアム・マージェットソン・ヒールド師(1767−1837)はパトリックとはちがい、先鋭で極右の保守主義者であった。そうしたヒールド師の過激な言動は労働者から敵意を買い、暴徒からしばしば襲撃を受けていた。その結果、パトリックも謂われなき理由でその影響を蒙ることになってしまった。ことを穏便に収拾したいと考えたパトリックは、貧しい労働者に法と秩序を守ることを説き、宥(なだ)めようとしたが、これが仇(あだ)となり、労働者から敵とみなされてしまったのだ。それ以来パトリックは暴徒たちからの襲撃に備えてピストルを所持せざるをえなくなったのである。
 ラダイツ事件がまだ熱い話題であった1813年1月、パトリックとマリアはリヴァセジ、ハイ・タウンのクラフ・ハウスに新居を構えた。パトリックがハートヘッド在任中ラダイツの暴力的な破壊活動に悩まされはしたが、二人は新婚の幸福を享受していた。マリアは信仰心の篤い、まさに聖職者の妻として理想の人であった。パトリックは仕事のかたわら詩作品を書く時間を見つけ、幾つかの文学作品を出版した。
 まずパトリックは処女詩集『草屋詩集』(1811)を発表した。パトリックの周辺はラダイツ暴動などにより慌ただしい(あわただしい)雰囲気を醸していたが、徐々に世情も落ち着きを取り戻しつつあった。パトリックも事態が収拾しはじめると精神的に安定したのか、第二詩集『田園吟遊詩人』(1813)、第三詩集『森の草屋』(1813)を矢継ぎ早に刊行することができた。
 妻をもち聖職の仕事と創作活動を両立しながらパトリックは順調な家庭生活を営んでいた。さらに長女マリア(1814年4月23日洗礼)が生まれ、ブロンテ夫妻は至高の幸福を味わったのである。また1814年暮れにはペンザンスに住む姉エリザベス・ブラウェル(1776−1842)を新居に迎えた。というのも、おそらくマリアが次女エリザベスを妊娠していたため、女手がほしかったからであろう。こうして姉の支えによってマリアは長女マリアに続いて、翌年、次女エリザベス(1815年2月8日)を産んだのである。

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ブロンテ夫妻の至高の幸福の時です。聖職者というのが よくわかりませんが 極右の過激な聖職者というのは どういうことをしゃべっていたのでしょうね。
パトリックはみずからを強く主張することはなかったといいますが、そのころの労働者は貧しく不満も多かったのだと思いますが よく暴動が起こっていたのですね。
ここらへんで最初から読んでみます。ケルト民族がどのように生きてきたのか よくわからないままきているからです。それに「ジェーン・エア」「嵐が丘」この2冊を読んだことがあるので この本を手に取った訳なんですが ケルト族の長い歴史は複雑です。
ブロンテ姉妹を育んだハワースの荒野の写真を見ると 生きてていくことをを拒絶しているかのような荒野です。

さいならさいなら


《 2016.01.24 Sun  _  1ぺーじ 》