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ドビュッシー

『音楽と文化』川上徹太郎 創元社 昭和13年

ドビュッシー

 とかくするうち「ベアレス」の初演は1902年行われた。しかもこの全く革命的な作品の上演が大成功であった。彼は主として若い青年たちに祭り上げられ、常時楽壇のアカデミックな主流であったグンディ一派と対抗させられた。
 ドビュッシーは1899年に結婚していた。相手は貧しい娘だったが二人の生活は確かに幸福であった。ところが1904年に富有な未亡人エンマとの新しい恋がはじまり、ドビュッシーは前の妻を棄てて正式にこの女と結婚した。この事件は棄てられた前妻の自殺未遂などが絡まりドビュッシーは大いに友人間などで評判を失った。
 その後ピアノ曲集「版画」「映像第一部」「同第二部」や管弦楽「海」などが書かれたが、しばらく彼の健康も衰えてきたように見受けられた。1910年にはピアノ曲「十二のプレリュード第一()」「同第二()」ができた。私が思うにこれは彼のピアノ曲の最大傑作である。十二で一()をなしてもショパンやバッハのそれのように調子と関係があるのではなく、夫々標題がついていて内容的な小曲集である。
 二十世紀初めのパリの芸術界は全くディアギレフ一派のラシャン・バレーに眩惑されていたといっても過言ではないが、1911年ドビュッシーの「聖セバスティアンの殉教」が上演され、イダ・ルビンシュタイン夫人が主演して名声を博した。その年ストラヴィンスキーの「ペトルウシカ」も同じく初演され、ドビュッシーはこの全く傾向の違った才能の作品をよく評価したのである。
 やがて1914年が来た。ドビュッシーは自らの健康も衰えるとともに、この世界的な不幸の時期を懊悩(おうのう)の内に過ごした。
 1918年3月28日の午後、彼は昏睡状態にあった。レビイヌの言葉によれば「かくも多くの和音、かくも多くの和声を溶かした彼の手、かくも多くの捉え難い美を創造した美しい長い年は、無限の深淵の端に幾時間か身を支えようとするかのように、力なく敷布を握りしめていた。やがて夜が来、ものすごい空襲の響きがパリの全市を揺るがしていた午後十時に、彼の脈拍は絶えた。戦争のために彼の死もパリ市民の心を惹かず、その遺骸を墓に送ったのはごく少数の友人だけだった。

***

ドッビュシーはこれで終わりですが 1899年に貧しい娘と結婚したドビュッシーは
1904年に富有な未亡人エンマと妻を棄てて結婚してしまいます。
この()車篇に口書いて下に耳、「しょう」かな「ごう」かな「へん」かな と漢字は難しいのです。
私は「字通」という白川静さんの辞書を持っているのですが どうやってこの字を探すのか 漢字探検隊をしないと見つかりそうにありません。頭の中は複雑な回路でせわしなく音がします。

さて ドビュッシーは1918年3月28日の午後10時に年パリの全市に空爆の響きが起こる中 亡くなるんですね。56歳ですか。

いつか彼の曲にであった時 私はきっと これを読んでいるから 少しの親しみをもって聞くのでしょうね

さいならさいなら
《 2016.01.05 Tue  _   》