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瀧口修造

『コレクション 瀧口修造』みすず書房 1991

自らを語る 身辺珍書

 私は本が好きであるが、世のいわゆる蔵書家ではないし、いわんや珍書の蒐集家ではない。ただ戦前にはシュルレアリスム関係の詩集や画集がいくらか集まっていた。それも物好きから蒐集したというわけではなく、シュルレアリスムの詩や絵画に関心をもっていたので、自然に買い集める結果になり、途中から著者たちが贈ってくれたりしたので、つい珍しいものも多少はあった。それも私にとって豪華限定版だからというのではなく、紙ビラ一枚でも貴重だったのである。そういうわけで当時のシュルレアリスム運動の生きた資料がかなり集まっていた。今日ではブルトン、エリュアール、アラゴンなどといえば公認の文学史に入ってしまったが、フランス文学者が異端視していた頃のものであったから、やはり珍しい蔵書といえばいえたのであるーしかしそれも昭和20年5月25日夜の焼夷弾ですべて灰に帰してしまった。それ以来、私は本というものに一種の無常感を抱いたらしいことは事実である。無常感など、確かに愛書家にとって矛盾した事草にきこえるが、それにもかかわらず私はもう金輪際、本を集めようなどとは思うまいと決意した。あれこれ本を揃えるなどという意欲が消滅してしまったのである。殊に戦後は私たち美術分筆者にとって書棚にほしいような画集が矢つぎ早に出版されるので、それを追い掛けることはとうてい経済がゆるさない。誰かが持っていてくれれば、それで安心してしまう。そんなわけで私の愛蔵書や珍書といっても、注文すれば簡単に手に入るものでも、私自身にとって特別の思い出やエピソードがあれば忽ち(たちまち)ひとつの「オブジェ」と化してしまうのである。私はここで多少のいわゆる珍本をまじえて、2、3の洋書を紹介しようと思うのだが、それは何もガラスばりの棚に秘蔵しているのではなく、日常私の机辺に置かれて親しんでいるものばかりである。

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「紙ビラ一枚でも貴重だったのである」
このことばにも惹かれますが 瀧口さんは戦争で焼夷弾に蔵書が焼き尽くされたとき 金輪際本を集めようと云う気が失せてしまった と書いていますね。
本の魅力は これからは 場所をとらない 小さな タッチパネルのものにかわるのかもしれませんよ。最初は 「この本を開ける感触」などといってても やがてそれがいつのまにか 「書棚なんてたいそうなもの」と思うようになるかもしれません。レコード盤だってなんだって かわっていきました。

「そんなわけで私の愛蔵書や珍書といっても、注文すれば簡単に手に入るものでも、私自身にとって特別の思い出やエピソードがあれば忽ちひとつの「オブジェ」と化してしまうのである。」
 「オブジェ」私はこの言葉の意味をここで教えてもらったような気がします。でもしっかり考えようとごろんと横になりました。絵は平面に描くもの、オブジェは立体、そのように区別していたのです私は。

さいならさいなら


《 2016.01.02 Sat  _  1ぺーじ 》