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ブロンテ姉妹

『ブロンテ姉妹』その知れれざる実像を求めて 中岡洋 NHKの続きです。

ブロンテの生きた時代ー家庭内天使

産業革命

それまでは馬を使って一日150マイル(約240キロ)しか行けなかったところが、一日に1000マイル進むことが可能になった。たとえばアメリカ大陸横断に四ヶ月かかっていたのが、横断鉄道が完成した1869年にはたった四日に短縮された。このように鉄道の敷設によって人々の往来は迅速、かつ多量になったのである。
 ブロンテたちもこの画期的な鉄道の旅を経験している。1839年晩夏、シャーロット(1816−55)は親友のエレン・ナッシー(1817−97)と東海岸バーリントン(現ブリドリントン)近くのイーストン農園を訪れた際、リーズからセルビまで一時間半かけて汽車の旅を楽しみ、そのあとは馬車でヨークを経てバーリントン、さらにイーストンへと足を伸ばした。
 1842年2月、シャーロットとエミリ(1818−48)がブリュッセルに留学したときもまたこの文明の利器が使われた。父親パトリック(1777−1861)に連れられて、八日(火)早朝ハワースを発ち、リーズまで馬車で行った後、九時リーズ発、午後八時ユーストン・スクエア着予定の急行列車に乗った。そしてセント・ポール大聖堂のすぐ脇にあったパターノスター・ロウのチャプター・コーヒー・ハウスに宿泊したのであった。これがエミリにとって鉄道旅行の最初の経験であった。また1848年7月7日(金)、シャーロットとアン(1820−49)はにわかに発生した『ワイルドフェル・ホールの住人』(1848)の版権問題で作者はわたしたちだということを明かすためにロンドンへ向かった。キースリーまでは徒歩だったが、敷設されたばかりのキースリーリーズ間の鉄道を使い、リーズからロンドンまで急行列車に乗ったのである。

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汽車 石炭で走ってたんですねえ。
今では 汽車は電車です。馬車や徒歩で歩くしかなかった時代 鉄道ができることは大きなことだったんですね。アメリカも日本もそして世界中が この鉄道は文明のあかしやったという訳ですね。急行列車にのるまでは やはり 馬車です。バスはなかったのかなあ。
のりものといえば バスや自動車があります。そんなことあたりまえで そのとき同時になにがあったのか 考えたこともありませんが ロンドンの二階建てバスはいつごろ走ったのかなあ(笑)。
『ワイルドフェル・ホールの住人』の版権問題でシャーロットとアンはその作者は自分たちだと明かすためにロンドンに列車に乗って行きます。
さてきょうのパート2ではブロンテの旅行経路をアップします。
《 2015.12.09 Wed  _  1ぺーじ 》