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ピカソとその周辺

『ピカソとその周辺』フェルナンド・オリヴィエ著 佐藤義詮訳の続きです。

ゲッツ家の夜会

 変わった風采をしたドイツ人たちが、ピカソノ家に来ていた。最初に来たのがヴィゲルスだった。 彼は不幸な小柄の画家で、麻痺剤の犠牲者だった。同じ棟に住むようになったが、その後そこで自殺した。
 彼は一風変わっていて、捉え所どころのない容貌をしていた。禿頭で、プロシア人特有の獰猛(どうもう)な感じの目鼻立ちの若々しい顔付をし、きつく鋭い眼差しだった。彼は人に好感を抱かせるようなところはなかった。少しずつ彼に慣れて行った。彼も前より打ち解けて、彼のうちに潜んでいる詩人らしさを発揮した。彼を信用するにつれて、私たちは彼に非常に優しいところがあり、美しい繊細な感受性に富んでいるのを発見した。当時私が会った総てのドイツ人のように、彼にも少し物事に熱狂し過ぎるところがあった。
 今日でもモンパルナスで見掛ける大男の画家ゲッツもいた。彼は金持ちで、当時住んでいたカルディナル・ルモアーヌ街のアパルトマンで、ピカソや他の連中に贅沢なご馳走をしたものだ。彼はそのアパルトマンの間仕切りをみんな四分の三の高さのところまで取り壊させていた。
 私たちはそこでシャンパン付きの食事をした。どっさりシャンパンを注いだ大きな鉄鍋の中に、パイナップルを切り込んでおいた。銀の大匙でもって、それをすくって飲んだ。
模様入りの盆の上に盛って出された、熱くてきらきらと脂の浮いている大きな鵞鳥を、ナイフやフォークで切り取って食べた。
 私たちはひどく陽気に騒ぎながらそこから出てきたので、近所の人々はびっくりして、三階ではなにごとが始まったのかとそっと扉を開けて見たほどだった。
 ある日、ヴィゲルスとブラックが階段で滑って、丁度その時扉を半分開けた二階のナイト・キャップ姿の借家人の部屋に、転がり込んだ。
 私たちはそこで幾組かの気になる夫婦に出会った。芸術家で、愛想のよすぎたホフマン夫妻もいた。几帳面で冷たい感じのウーデや、熱情家で狂人じみたフレリッヒや、その後戦争でフランスから追放された他の人々がいた。
 風に当たりたくて露台に出たり、天窓があるこのアパルトマンには珍しい薄暗い片隅に足を踏み入れたりすると、私たちの友人たちがこれらのドイツ夫人たちに優しく抱かれているのを見つけることがあった。ドランとピカソの妻君は機嫌を悪くし、続いて喧嘩が始まったものだ。
 しかし街の冷たい空気が、一方の女の鬱積(うっせき)した怒りともう一人の涙に濡れた悲しみを吹き払ってしまった。そして私たちはモンマルトルに帰るために、ピガル・ホールとヴァンを往復するバスの階上席へ登るのだった。

***

 私はそれまでよりは画集を開いてみることが多くなりましたが そして「こんな画家がいたのか」とその絵をながめることもあります。ピカソのまわりにいた画家たちです。ヴィゲルス どこかでこの画家の絵にお目にかかることはあるかな。パリにはいろんな国の芸術家が集まっていましたね。ドイツ人 プロシア人(どこでしたっけ?)
モンパルナスでは大男のゲッツ この画家はどんな絵を。このひとはピカソたちにご馳走を振る舞ったんですね。ブラックは誰でも知ってますね。ホフマン夫妻、ウーデ、フレリッヒ。フランスから追放された他の人々。
「カルディナル・ルモアーヌ街のアパルトマンには ドイツ夫人たちに優しく抱かれた私たちの友人たち」ドイツがパリを占領していたってこと? ちがうなあ第一次大戦ではドイツはフランスに負けたんですね。だからドイツ人たちはフランスからおいだされたんですよね。 歴史に弱い私ですがな。この時のピカソ夫人はオリヴィエじゃなかったんでしたっけ?
オリヴィエと同居生活を始めたのは1904年です。パリ永住を決意した年でもあります。
1900年ー1914年 第一次世界大戦が始まる前ですね。

さいならさいなら
《 2015.11.19 Thu  _  1ぺーじ 》