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クレー

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コレクション瀧口修造 1991 みすず書房の続きです。

幻想画家論 クレー

 1920年11月、クレーはワイマールの新しい造形研究所バウハウスから招請の電報をうけとった。「画家として我々の仕事に参加していただきたい」とグロビウスを筆頭に
ファイニンガー、エンゲルマン、マルクス、イッテン、クレムの連盟でクレーの教授就任を懇請したものであった。クレーは固い決意のもとに翌る年の1月に赴任した。教えることと制作することの二重の活動はかれにとて大きな肉体的不負担であったが、かれは精魂を傾けて造形の理論を展開した。バウハウスではすべてにおいて新しい芸術教育のシステムをつくることが必要で、出来合いの教科書というものがなかった。こうして「バウハウス叢書」が生まれ、クレーも1924年に『教育的スケッチブック』を書いたのであった。校長のグロピウスはまずアルティザンというものを重要視し、「芸術家はまずすぐれたアルティザンでなければならぬ」と主張していたが、この見解にクレーは完全に一致した。芸術家とアルティザン、教師と学生とが完全に共働するコミュニティーがバウハウスの特色であった。クレーは孤独な人間であったが、このような組織の中の一員として幸福な充実した生活を送っていた。かれがカンディンスキーとともに絵画の教授として独立したコースを受け持ったのはしばらくのちのことで、最初は「形態の教師」としてステーン
ド・グラスと織物の工房を教えていたのであった。1922年にモスクワから戻ったカンディンスキーが教授陣に加わってからは、クレーとのあいだに緊密な協力が行われた。

***

アルティザン ええっとこれはどう云う意味でしたっけ?そうか職人という意味なんですね。「芸術家はまずすぐれた職人でなければならぬ」
そうなんですか、でも なぜそういうことをはっきりいったんでしょう?この見解にクレーは完全に一致したとありますね。
「クレーは孤独な人間であったが、このような組織のなかの一員として幸福な充実した生活を送っていた。」
教師と学生との共働するコミュニティー このなかで クレーは孤独ではなかった つまりクレーのこどくは理解されないところでいることの孤独をかかえていたのですか?コミュニティーは芸術について 充分自分たちの考えを 教師であっても 生徒であっても話せたんでしょうか。
ステンドグラスの教師 最初は「形態(フオルム)の教師」としてステンド・グラスと織物の工房を教えていたんですね。クレーははじめからこの技術を持っていたのかしら?
カンディンスキーが出てきますね。

「造形の理論」どんなものなのかな

さいならさいなら


《 2015.10.25 Sun  _  1ぺーじ 》