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1ぺーじ

『音楽と文化』河上徹太郎著 創元社 昭和13年の続きです。

ベルリオズ

 次にシェイクスピアについていえば、ベルリオは手記の中で書いている。「シェイクスピアは不意に現れて電撃のようにわたしを打ち倒した。彼の精神は、星空の高みから超絶的な力をもって襲来して、芸術の最高の天国を私の前に開き、その奥底の深みを輝かし、地が示しうる最もよく、最も壮大で、そして最も真実なものを現した。」と。この古典に憧れる精神こそ真の浪漫的精神というものである。この衝動を受けたベルリオズは興奮のあまり街といわず田舎といわず方々を彷徨し、それを探してショパンやリストが一晩中野原で過ごしたという逸話がある。ともあれ彼はそのとき決心したごとく、シェイクスピアを題材とした音楽をその後色々と傑作として遺した。
 これとほとんど同時に、彼はゲーテの「ファウスト」を読んで、シェイクスピアに劣らずこれに打たれた。そしてそのなかの詩句に作曲し、また後年「ファウストの地獄堕ち」ち」の音楽を書く動機を作った。彼の最初の傑作「サンフォニー。ファンタステイク」が世にで出たのはその頃である。この曲と彼のローマ賞の作品「サンダナパールの最後の夜」を中心として、しばらく彼に対する一般の熱狂が起こった。しかし彼の作品のもつ激しいロマンチシズムは、彼をして長く劇場や音楽家以上に立たしめる程、凡俗な聴衆を引きとめなかった。彼の曲はすでにリストやバガニニのごとき巨匠がすでに認め、絶大の支持をしていたのだが、その革新的な音楽は一部の識者を除いて多数の聴衆があるわけではなく、彼が実際に管弦楽の前に立ってバトンをふる機会はそう恵まれなかった。
 ベルリオズの鑑識眼の高さはよく誤たずリスト、シューマン、ショパン、メンデルスゾーン、ワグネル等を認めたが、その中でも友情のもっとも深かったのはリストで、リストはよく自ら指揮棒をとってこの不遇な友の作品を演奏した。またベルリオズはメンデルスゾーンを高くかっていたが、相手は自分を認めていないだろうと思っていた。しかし事実はその反対であったことが晩年にわかった。

***

今日一番もたもたしたのは シェイクスピアがベルリオズの時代と どのくらいちがうのかちがわないのか わかろうとして わからなかったことです。1500年くらいかなあ、秀吉の時代かなあ、と家のものが言いました。ベルリオズが1803−1869ですから そうですか 彼からすれば古典?
ベルリオズのシェイクスピアへの憧れは相当なものですね。

「シェイクスピアは不意に現れて電撃のように私を打ち倒した。彼の精神は、星空の高みから超絶的な力をもって襲来して、芸術の最高の天国を私の前に開き、その奥底の深みを輝かし、地がしめしうるもっともよく。もっとも壮大で、そして最も真実なものを現した。」

田舎や町を興奮して彷徨したベルリオズをショパンやリストが探しまわったんですか?けっこういまでいうめんどくさい人ですね。 感激屋さんというのか。それでもショパンやリストはその才能を認めていたんですね。

かれはゲーテのファウストにもがーんと打たれていますね。
女優にも打たれましたし 打たれ強いというよりは打たれやすい人なんですね。純粋で。ところがその度合いほど バトンをふる(指揮棒?)機会には恵まれなかったわけで。

ふむ...ベルリオズはあの世でもリストやショパンと情熱的にやってるかなあ。
メンデルスゾーンもかれのことをかってたんですね 

さいならさいなら
《 2015.09.11 Fri  _  1ぺーじ 》