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おたより

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ぴーさんからのおたよりです。



先日、松谷みよ子さんの「ふたりのイーダ」を読みました。

広島にある7本の川。
その川へ、原爆で亡くなった人たちへの祈りをこめて、
八月六日の夜、とうろうが流されるそうです。
そのとうろう流しの場面が印象的でした。

りつ子お姉さんについていった直樹くん。
流れて行くとうろうの火をみて、
「とてもきれいだった。死んで何年もたてば、
何十万人の人がいっぺんに殺されたという
おそろしい思い出も、
きれいになるものだろうか。」と直樹くんは感じました。

りつ子お姉さんは
「こうして、火がともって、海へ流れていくときはいいの。
でもね、真夜中、上げ潮になるとね、
半分こわれたり、もちろん、火も消えたとうろうのかたまりが、
海からまた潮にのって、帰ってくるのですって。
もうだれもいない しんとした真夜中の海辺や、川に、
こわれたとうろうが帰ってくる...。
わたしはそれをきいたとき、それがほんとうだと思ったの。
たくさんの、海に流されていった人たちのたましいは、
けっして、休まることはないのよ。
どんなことがあってもゆるせないのよ。
その思いが、潮にのってうちかえされてくるのよ...。(ふたりのイーダ)

この真夜中にかえってくるとうろうの様子が、
わたしはいつまでたっても頭から離れません。
さみしくてかなしい気持ちがします。
ほんとうにたくさんの人たちが...。


松谷みよ子さんのあとがきに、
以前みをぎさんのおたよりで教えて頂いた
丸木俊子さんとのおはなしが書かれていました。

最近えがかれた、とうろう流しの図の前で、
真夜中、火の消えたとうろうが沖から
潮にのって帰ってくる話をうかがった。

「絵にもかけません。文にもかけません。」と、
丸木さんはいわれた。

「でも、書かなくてはいけませんね。」
「そうです。二十一世紀の人たちになんらかの形で伝えることが、
二十世紀に生まれたわたしたちの責任です。」


***

ぴーさんおたよりありがとうございます。
「ふたりのイーダ」わたしもとうろうが帰ってくるすがたを想像しました。
テレビで被爆者の人の話を聞いていて 死んでいった老人やおとうちゃんやおかあちゃんたち そして子供達 そして一瞬にして家族をうばわれてしまった孤児たちのことを少しだけでも考えてみましたよ。
それからの人生がこんなにつらいのかと 思いました。 7歳やそこらへんの子供達がね一人ぼっちになるのですね。 原爆症とともに それで仕事につけなかったり やむなくやめざるをえなかったり。この病を次の世代に渡ってもかくしながら生きる人たち。 その人たちの一人が 
「わかってほしいんです」と言いましたね。 
周りの人たちにも そして広島をおとずれたアメリカのトルーマンのお孫さんにも。 原爆を落とすことをきめた大統領トルーマンのお孫さんです。 彼は被爆したその人の言葉に驚いたに違いありません。 彼はその後アメリカの各地で原爆のことを 話し始めました。

エノラゲイに原爆を積んで飛んだ兵士。この人のことを書いてある本を読んだことがあります。 命令を実行した彼は たたえられ 拍手でもって迎えられます。 しかしその後 そのことは 輝かしいことだけではありませんでした。 そのことがいいと思う人だけではないからです。 そのときに彼は思います。 日本の兵士もがんばった 戦争とはこうなのだ。 
原爆投下を実行した兵士がそれぞれに後悔はない 無事やり遂げたのだ といいきっています。 そう信じ続けることも 悲しいことではないでしょうか。 この人たちもその後を 生き続けなければならなかったからかもしれません。 日本にきて原爆記念館で 大変なことをやってしまったんだと言うアメリカ軍兵士もいました。 原爆をつくった化学者の女性は 原爆記念館に本当は行きたくなかった そう言った人もいました。

それぞれに つらいできごとのはずですよね。

「わかりあえること」大切なことなんですね

「けっして 休まることはないのよ」 戦争に出会ってしまった人たち

ぴーさん おたより ゆっくりおまちしてます。



 





《 2015.08.10 Mon  _  おたより 》