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フレデリック。ショパン(1810〜1849)


「ショパン」の続きです。音楽と文化 河上徹太郎 創元社発行 昭和13年

 その翌年七月ウイーンを立ってミュニッヒで演奏会を開き、パリに向かってシトットガ
ルトに至った時に、ワルソーがロシヤ軍のために陥落した報知を受けた。伝記作者は彼の作品十番のハ短調エチュードがこのときの感動によるものだといっているが、当時の彼の手記や手紙によれば、彼の受けたショックは恐らくそんな余裕なんか無かったであろう程、祖国に居る母や友人を思う心とロシヤに対する憤激に満ちている。「それなのに私はここに何もしないでこうやっている!手に何ももたずにこうやっている。時に私は唸り、苦しみ、そしてピアノに向かって絶望している!」などいう言葉が常時彼の書いたものの
中に窺われるのである。
 それでも彼はワルソーヘは帰らずに九月の終わりにフランスへ向かい、十月の初めにパリへ着いた。「この旅行は彼の運命を決定した」とリストはいっている。ショパンの二十二歳の時である。 当時彼のエチュードの第一冊は既に書かれており、作曲家としてのスタイルを獲得しているとともに、ピアニストとしても新しいテクニックの開拓者であった。当時のパリは浪漫主義芸術の絢爛たる開花の真っ最中にあった。ユーゴー、ミュッセ、ハイネ、ゴォティエ、ドラクロア等と共に、音楽家ではケルビニがコンセルバトアールの頭に立ち、月曜日に開かれる彼のサロンにはマイエルべ−ル、ロッシニ、オーベル(この三人が当時全盛期にあった)、フンメル、カルクブレンナー、及びリストなどが集まっていた。ショパンはこの仲間と知り合ったと共にメンデルスゾーンともつきあった。ショパンの音楽が全く独創的で影響を与えた作家を挙げることがむずかしいとはいえ、これらの交遊が全く彼の作品に影を投じないはずのものではない。今にあげたマイエルベール以下三人がオペラ作者である点からも、ショパンの音楽の中にあるイタリー音楽的要素は一面的ながら指摘し得るのである。ショパンのパリでの最初の演奏会にはリストやメンデルスゾーンが列席してこの若いポーランド人に魅了された。やがて彼はパリに於いて教師の名声を獲って、その弟子に上流の婦人が多かったために、華やかなサロンの生活が彼の前に開かれたのであった。1833年の手紙に、「今や私は、大使や公爵や、その他貴族の階級に出入りしている。別に出しゃばって入り込んでいったわけでもないのにどうしてこんなことになったのか私には分からないが、今のところこれは絶対に必要なのだ。いわば
いい趣味を得るために。・・・今日は五人の教師をしなければならない。こうやって私が金を作らなければならないことが君には想像つくと思う。馬車と白手袋が私の収入をほとんど喰ってしまうのだけれど、これなしには人々は私を軽蔑するのだ。私はカルロス党員を愛し、フイリッピスト(反対派)を憎む。そして私自身革命家だ。だから私は金は欲しくない。ただ君に求めるような友情と守護だけが大事なのだ。・・・」
 この手紙にはサロンにおけるしゃれ者だとされているショパンの内心が吐露されている。彼が非常に見栄坊であり、その持って生まれた風貌や性格に女性的な外観があり、また彼のピアノの演奏が繊細で弱々しいものであったのは事実だが、彼の芸術の根底をなしているものは、彼の根底に燃えていた最も男性的な火であり、純潔な魂であったことは確かである。
 1835年にカルルスバードで五年ぶりに父親を訪ねた帰途、ドレスデンで古い友人のウォツヂンスキーに会い、その妹のマリーと恋に陥って婚約した。然しこの婚約は1837年に破れた。その次に来たのが有名なジョーヂ・サンドとの恋愛である。時に彼は二十八歳、サンドは三十三歳であった。サンドは以上な性格の持ち主であり、最初の婚約に破れて以来、メリメ・ミュッセを初め色々な男と恋愛の経験を経てきていた。
 その相手として選ばれたショパンが純情で子どもっぽいのを見れば、二人の関係は大体想像がつく。1838年にサンドが病身な息子を連れてバレアリック群島のマジョルカへ出かけてゆく頃から同棲生活が始まり、この恋愛は約十年続いた。従って彼が最も活動して重要な作品を仕上げた時期は、ずっとサンドとともにいたわけである。その頃すでにショパンは肺を冒されていたが、サンドは母親のような心遣いを持って病人をいたわり看護した。しかし1847年に至って二人の間に不和が起き、サンドはショパンから遠のいた。それから二年間、ショパンは急激に悪化した肺患のため苦しんだあげく、1849年十月十七日にこの世を去った。日本流にいってまだ丁度四十歳だったわけである。彼はパリのベエル・ラシェエズの墓地に、ベルリーニと並んで葬られた。友人たちが例の彼の祖国の土をその上に投げかけたことは前述の通りである。

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わー長かったなあ!でも興味深く読んでしまいました。感想は明日にします。ショパンのこれは絵ですか、写真ですか、Rosemary Brownnの「詩的で超常的な調べ」国書刊行会にありました。
さいならさいなら
《 2015.05.26 Tue  _  ちまたの芸術論 》