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おたより

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みをぎさん お元気ですか。
きのう『中島敦展』の本見ました。
そうしましたら いままでみをぎさんがこの作家について教えて下さったことがいろいろ出てきて 驚きました。
川本喜八郎「不射之射」人形のところの川本喜八郎という人の話、みをぎさんは詳しく話して下さいましたね。 中島敦の作品とかかわりがあるのですね。 漢文といえば中国、遥か昔の歴史物語。 みをぎさんはこの作家の本から歴史物語に興味が出たんですか。それとも少女時代の読書好きからですか。

中島敦が亡くなったのが昭和18年、今読んでいる「印象派時代」がその昭和18年発行ですね。日本も外国も危ない時代だけど またその前はいい作品が生まれるものがあったんですかね。
中島敦という人は33才で亡くなっているそうですが この33年のあいだにもしかして
中島敦をとても豊かにさせる時代があったんではないのかと思うのですが。
この「印象派時代」などについて感動する時代があったように。

戦後生まれの私は 日本の戦前の「文化の息吹が十分にあった時代」のことを想像するのを忘れています。お隣の中国の歴史文学を尊敬することも。

漢文ときけば「むずかしいです」でかたずけていた私ですが 「中島敦展」一冊読むだけでも ちょっといいかな です。

中島敦の自筆画、「おれんちのぱんじい」がこの本の1頁にあります。
自宅庭で花作りに熱中し、とりわけパンジーを愛した。と書いてありますが。
この絵を見て「絵って むずかしくなくていいな」と思いました。植物はいじりだすと熱中するぐらい楽しくなりやすいですが 戦時中はこういう花にひかれるものがあったんじゃないかな と勝手に思っています。

晩年の撫山(ぶざん)と漢学の私塾・幸魂教舎(こうこんきょうしゃ)。中島敦の祖父にあたる人。今テレビ歴史ドラマに出てくる吉田松陰の「私塾」、「松下村塾」というのと同じように明治になっても私塾があったということ。 撫山は1873年(明治6年)から1911年(明治44年)撫山が亡くなるまで続いたという話。中島敦の祖父です。
そこで幼児期をすごしています。

漢文で中島敦はきっと中国の歴史小説をいろいろ勉強していたでしょうから その大陸の壮大な歴史物語のおもしろさは身に付いていたんでしょうね。 そこからこの人の作品が生まれる。 33才という若さで亡くなったその才能をおしんで 中島家がそしてその本に感動した人たちが 広めようとした。 中島敦には独文学者の友人、国文学者の釘本久春は早くから中島の才能を認め、世に出すべく常に配慮していたと書いてあります。
こうして中島敦という人は知られるようになっていったんですね。
また「耽美派の研究」において谷崎潤一郎のことを「小器用さを誇り、小成に安んずる日本人には珍しい」と高く評価していると。
ということは この人も 大陸的というかそんなものをもってた人ということなんですね。 横浜に住んでいて その土地の雰囲気、異国情緒も これもこの人に影響を与えていたんですね。 あの時代の横浜外人墓地はどんなだったんでしょうね。 この「中島敦展」には写真がいっぱいで いろんな情報が入っていて あまりにも無知な私にも想像力を持たせてくれるのです。

中島敦という人は この短い一生の中にも戦時中には南洋に仕事で行き、教師をしているときも中国や小笠原旅行に行っている。そこでの話はあの当時そう外国に行けないときだから珍しい話がいっぱいだったと思います。

さあ、今度は中島敦の作品を私は読むことが出来るのでしょうか。「面白かったですよ。高校時代記憶に残ってるのが中島敦です」と言った人がいて 「むずかしんじゃないんだ」と思いました。人が段々トラになっていく話といえば「山月記」ですね。

おたよりおまちしてます

《 2015.04.06 Mon  _   》