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おたより

Sちゃんからの手紙です。1990年です。


皆様お元気ですか。皆がそろって賑やかになったことでしょう。
 小包のの中に入れる手紙も 二度もそちらから手紙をもらったので ちぐはぐになって 書き直します。 シャツとパンツはそれぞれの分として作ったのですが じゃんけんとは(きっとじゃんけんをして選んだんだと思う)思いもよりませんでした。 三人とも 大体の大きさは同じくらいでしょうね。 これからはそのつもりで作ります。
 始めのころ TELしたとき 大阪の時とみんなサイズが変わらないと云っていたので 作っている途中から これでは暑苦しい(窮屈という意味)のではないかと心配していました。
 そちらは やっぱり寒い所だそうで 大変ですね。(去年経験したから)今年は慣れると思います。 寒いのは正月の前ごろからで(Sちゃんところも 相当寒い)寒のうちはやっぱり寒いです。 彼岸までは暖かかったり寒かったりです。

出版記念(私たちの本が出た。何の本だっけ?)盛大に盛り上がったことでしょう。
またの機会に出席します。 
12月に上阪したとき あちらでNさん(夫せいのこと)の絵見かけました。 これからは一段と忙しくなることでしょう。 そちらの様子もまた知らせて下さい。
家のほうも だんだんに想像がふくらんで 作る楽しみというか 皆でかこんで わいわいしてることではないですか。

***

Sちゃん 1990年のおたよりなつかしく拝見しました。
1990年といえば 私たちが信州に引っ越ししてから一ヶ月たらずの年です。
おだやかな天候の しかし夏はとても暑い大阪から 私たちはクリスマスの夜に 雪のふる信州に到着。 少ない外灯の中 雪がななめにふっていて 口に出さねぞ 「どないなるんやろ」とみんなが思いました。
小学校の運動場は水がはってあって凍っていて スケートリンクになっていました。 私たちは一番信州らしい季節にやってきたというわけです。

Sちゃんは 島根県の実家に 帰ってそこで新しい生活が始まっていました。Sちゃんが大阪から実家に帰ったのは 何年でしたかねえ。忘れてしまいました。

Sちゃんは 子供たちの服をぬって 送ってくれました。長い間 そのトレーナーを着ていましたよ。この私たち家族はいろんな人にお世話になっています。すっかり忘れてたことを こうして書いていくうちに思い出しました(笑)。 みなさんどうもありがとうございました。

1990年には 夫せいのお父さんと私の母が 私たちと同居することになりました。
8人家族になったわけです。 
あたらしい家は 借家を借りながら建ててもらいました。 その時は まだ義父と母はきていませんでした。 借家では大阪からいっしょにきた ミッキーという牝犬もいました。この環境の変化は ミッキーもつらかったでしょうね。 家の中でかってやればよかった。 今ねこをかってみてそう思います。ミッキーは7才で死んでしまいました。

借家は大きかったのですが なにせ寒かった。元歯医者さんのあったところで 私はその診察室が気に入って アトリエにしてました。大阪からトラックでもってきた「ごみひろいの宝」(つまり人から言わせればごみ)も十分に入る広さでしたしね。 そこで 広い窓から北アルプスの山をながめながら ゴミはアートに変身していったわけです。
そこには何ヶ月もいましたよ。 大きな窓から光がいっぱいさして ここで撮った写真はよく撮れています。 あのころの自分はどこにいっても 自分の居場所を確保して楽しんでいました。

でも子供らは 思春期の子もいて 急に大阪から引っぱがされるようにこの慣れない所にやって来て かわいそうだったかもしれません。 みんなは一部屋づつもらえる というのが魅力でついてきましたからね。 ま 親についてこなきゃ くらしていけませんからね。

いろんなことがあったなあ。
あ ついこちらの話ばっかり。
そのころ 夫せいはまだ 定まった仕事はなくて 私たちは子供たちの就学援助の手続きをとりました。 なんせここに来る理由が 土地が安いこと 大阪の家はやがて道路になるので 出る必要があったからです。 時はバブルの頃 15坪の家がバブルのおかげで高く売れたこと 信州に引っ越してまもなくバブルははじけたこと 時代はめまぐるしく動いていました。 私たちは大阪では 貧乏暮らしの夫婦で バブルの恩恵は受けていませんでしたが すれすれのところで あっと驚く為五郎(古いか)バブルに助けられたということでした。

本の出版 たしかに私たち夫婦は 本を出して なんとかしようとか 個展をして なんとかなるかもとか 知恵をしぼりまくっていましたね。 ところが これがなかなか難しいのよ。 そんなとき 版画や絵が少しづつ 売れ始めたりして 前よりは少しましになってきていました。

8人家族はしかし えらかったなあ。 私は料理人としたら 大したことないし 第一老人といっしょに住むということが こんなに大変なこととは 思ってもいませんでした。「出かけると 外で帰りを待つ老人」 和歌じゃないですか? いやあ まいったまいった。 老人ふたりも 「こんなはずじゃなかった 我が老後」という気分じゃなかったかしら。
いつまで自分の話を続けるんや 長らくのご清聴ありがとうございました。

おたよりおまちしてます  
《 2015.03.18 Wed  _  エッセー 》