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ジャン・コクトオ

動物の中でとっても集めたがりは何かなあ。それはともかく、今日はわたしが大事にもっていた物のなかに、三木英治という方が書かれた、「コクトオ覚書」というのがあります。1994年、神戸ハーバーランドで、「ジャン・コクトー展」が催された時にこれは書かれています。三木さんは、大阪のマサゴ画廊にわたしや夫の個展の時によくきてくださいました。その時にこの「コクトー覚書」をいただいたんだと思います。難しいことはわかりませんが、三木さんはコクトーに詳しいのです。わたしは当時も今も、コクトーで知っている事といえば、ん、一本線で描かれたような版画、横顔、鼻と口がくっついてるような。映画で「オルフェ」「美女と野獣」。でも、せっかく、これを見つけたのですから、コクトーさんの事を、三木さんのゆったりとした雰囲気のある姿を思い出しながら、もう少し知ってみようかな。コクトーさんは1889年(明治22年)パリ郊外のメゾン・ラフィットというところで生まれたそうです。その年というのは、フランス革命百周年記念、エッフェル塔が完成した日、ムーラン・ルージュができた年、パリで万国博覧会が開催された年、なんだそうです。三木さんはコクトオと書いていますので、それでいきますと、ふむふむ、お父さんはコクトオが9歳のときにピストル自殺をしています。そのことは後でおはなしします?はい。少年コクトオは、図画や体操など阿呆がもらう賞状ばかりもらっていた劣等生だったそうです。劣等生なんですね、そんな子は。ふむ。特に算数が駄目だったようですね。計算の苦手な彼は一生財布を持たなかったんじゃないでしょうか、ホテルやレストランの一流店の払いは、例えばココ・シャネルやほかの後援者たちが受け持っていたようで、羨ましい限りですね、と書かれています。高校に行く頃には、学業に追いつけず退学。リセ・コンドルセ校は名門校と書いてありますから、阿呆な生徒は少なかったんじゃないの、とわたしはつぶやきます。母さんは家庭教師をつけたりがんばったようですが、失敗して(親も子も)コクトオはついに自由を勝ち得ます、ですか。たしかに、ことごとく失敗すると自由が待ってるのかもですよ。コクトオの劇場通い、初めての恋が、その頃もう始まっていたのです。なるほど、困ったやっちゃ。コクトオにホモ・セクシャルの傾向があったことがよく言われていますが、実は若い頃のコクトオは、ヘテロ・セクシャル(異性愛)の人でありまして、彼の生涯を彩るいくつかの恋愛事件がありました。なるほど、ここんところは初耳だなあ、などと。17歳のコクトオのお目当ては、ジャンヌ・レイネット。前座歌手で、短いスカートに細身のステッキを持ち、歌詞を間違えると誰よりも真っ先ににっこりと笑ってみせた愛嬌のあるところが人気のある・・、次にパリ高等音楽院の学生。母親に内緒でビロン館というところで部屋を借り彼女と同棲します。彫刻家のロダンだって、詩人のリルケはロダンの秘書をしていたそうです、ふむ、すごいなあ、この世界、しかし、ひょんなことから、母親にばれてしまう、充分わかりました。「わが青春記」にあるそうです。そんでっと、まだ青春かよう、なんですが、少年コクトオは一時、家を飛び出してマルセイユに隠れていた事があるそうです。そこで、阿片やホモセクシュアルの集まるところを見たというわけです。三番目の恋人は七つ年上の女優、結婚も真剣に考えたようですが、家族の反対にあってレスビアン趣味のある彼女と別れる。「ジェルメーヌ(その恋人)は、オーケストラと太鼓との間で、大層あでやかに微笑するのだった。彼女の美しさは、もう少しで醜さに変わる一歩手前の美しさだった、あたかもアクロバットが死の一歩手前にいるように。それが一種人を動かさずにはおかないものだっ
た」やあ、コクトオさんのこの表現すごいなあ、三木さんの「コクトオ覚書」はさらに続いてまいりますが、わたしは、ここらへんで。左の人差し指と右の人差し指が、五本の指があるのにしめて十本の指なのに、なぜこの一本にまかせるのか、労働者諸君、それは、まちがってる、とうるさいのです。いつかこの続きは覚えておりましたら、ごきげんよう。
《 2014.06.13 Fri  _  エッセー 》