2018.08.262007年、葉山でのこと

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夜中に目がさめて、次の東京出張のときは、ひさしぶりに葉山までいきたいなあ。と、ふと、思いました。
わたしにとっての葉山は、実はちょっと苦い思い出というか、思い出すと少しきゅっと胸がいたくなるようなそんな場所。
葉山は、アトリエナルセを立ち上げて初めての個展をした町。

その頃、まだ結婚式もしていなくて入籍だけすませた新婚ほやほやの頃。
ようやく、なんだかああずいぶん前だなあ。と思って、でもなんだかいろいろと懐かしく思い出してきたので、書きたくなりました。

アトリエナルセを立ち上げたとき、4型の服からスタートしました。あとは、手作りで作り足したバッグや服と。
4型だけ、それぞれ1色ずつ最低ロットだった20着を工場さんで縫製してもらうことにしました。

当時、クルールという作家名で手作り作家さんとして、各地で個展をさせてもらったり、自分でつくったホームページで作品をネット販売したり、雑誌で布のパッチワークで絵を描くというようなレギュラー仕事を2つほどやっていた時期でした。

当時は、レギュラー仕事があるというのはとてもありがたく、毎月きまった収入があったので、それをベースに手作りでコツコツ、あいた時間に作品をつくっては販売するという生活でした。
でも、才能はなんとも不安定で毎月毎月、いただいた仕事をこなすだけで精一杯で、よい仕事がきても自分の才能のなさに、うまく乗り切れず、精神的にいっぱいいっぱいで、仕事の質が一定ではなく、いつも自信がありませんでした。
そして、きっとこの仕事はそのうち終わってしまうな。そのとき、どうやって暮らしていけばいいのだろう。と、いう気持ちがずっと頭の片隅にありました。
いま思うと、もっといただいた仕事に一生懸命集中しなはれ。と言いたい気持ちですが、若いわたしは、不安なきもちによくひっぱられていました。
当時、関西の求人誌で「週刊salida」という雑誌の表紙の背景をパッチワークするという仕事と、ベネッセのこどもちゃれんじのしまじろうの毎月のテキスト本の表紙を、おなじくパッチワークで作るという仕事をしていました。今考えると2年とか3年とかの話なのかな?もっと短い期間だったのかな?
ちょうど、salidaのほうが会社の母体が変わったり、冊子自体がなくなるのでは、という状況になっていった頃でいつ仕事が終わってしまうかどうか、いつ切られるか、いつもドキドキしていました。
そして、わたしはいつもギリギリで仕事をしていて、だめだしも多く、自分のできなさに悔しくて、泣きながら編集部から帰ったこともありました。
恋愛もうまくいったり、いかなかったり、なんだか仕事も恋愛も不安定。27歳くらいの頃ですかね。

そんな頃、当時友人関係だっただんなはんとつきあって3ケ月ほどで結婚し、だんなはんのこつこつ貯めた貯金を元手に3型の服と1型のカバンをつくってスタートしたのが、「naruse」でした。
だんなはんは、フリーで雑誌の編集とライター業をしていて、毎日のように取材にいったり文章を書く仕事をしていました。

わたしはレギュラー仕事に、自分の創作意欲のほとんどを出し切っていた頃だったので、手作り作家さんとしては活動も売り上げも縮小していた頃で、いちからまた自立して出直し。という気持ちでのブランド立ち上げでした。
いま思うと、工場さんで服をつくる。ということのむずかしさをなにもわかっておらず、ただただ、いただいたご縁と、当時のつくりたい!という気持ちだけつくった服たちでした。


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そして、4型それぞれ20着ずつ作った服やかばん、手作りで作った1点もののかばんや雑貨、クレパスで描いた絵やポストカードを手に、今はもうない葉山のhacoというギャラリーで個展をしました。
だんなはんは仕事があったので、個展3日目かな?に来てくれるということになっていて、ひとりで搬入して個展の会期中の数日は近くのホテルに滞在していました。

個展は、今まで個展をした中でいちばんだめだったのではなかったかな。いや、そうではなかったのかもしれないけれど、不安な気もちがそのままでてしまっていた個展だったような気がして、そんな記憶として残っているところがあります。
来てくださって購入くださった方もいたので、そんな気持ちでいること自体が申し訳ないなあ。と、今となっては思うのですが。


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そして、泊まっていたホテル、ホテルニューカマクラという大正時代からあるという、古くてモダンなホテルで、当時古いものが流行っていたというのもあって、また宿泊費がとても安かったというのもあって、滞在していたのですが〜
もうこれが、こわいこわい。古いだけにおばけがでそうなくらい、こわい。ひとりで泊まっていた部屋は、入ったとたんに大きな鏡があって、それがもうこわくてこわくて、夜は鏡がみれなかった。(笑)
おまけに、来てくださったご近所のお客さんが、あのホテルは、出ると有名なんですよ〜なんていうものだから、よけいにこわかったんですね。いやいや、あれは本当にいましたね。こわすぎました。

外国の旅行者も多く、お風呂は共同で、なかなかお風呂にはいるタイミングがわからないということや、フロント玄関で背の高い外国人と目があっただけで緊張するわ、おばけがでそうな部屋も落ち着かないわ、外にもなんだか気軽にでられないわで、部屋についたらひたすらだんなはんに電話をして、当時飼っていた猫のハナちゃんの写真なんかを送信してもらって、ただただはやく帰りたい・・。と思いながら寝た1日目の夜でした。
しかも、天候も寒くて春の嵐みたいな日だったんじゃなかったかなあ。

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早朝にひとりでいった、葉山の浜辺。
なんだか、わたしのきもちがそのままでてしまっているようで、妙にものがなしかったなあ。

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でも、なんだか感性はよかったんだろうな。

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そして、けっこう、おもしろいものを作っていたなあ。とも、思う。

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このチューリップのプリントなんて、最近のアトリエナルセでも刺繍でつかいました。わたしは、この頃の才能を、今だにつかわせてもらっているようなところもあるのだな。
うしろに飾ってある絵、ポストカードになっているけれど、この絵はこの個展で売れたのだった。いまでもこのポストカードは人気があります。

今思うと、おもしろい個展だったのだと思う。
その頃の繊細で、不安定なわたしにしかつくれなかったものが、あるのだなあ。と思う。


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hacoをパートナーと共同運営していた、hikiさん。彼女はいまも、葉山で手作り作家さんをしている。
hikiさんは、わたしの母にどこか似ているところがあって、個展中、彼女の優しさにとても救われたのだった。彼女もどこか繊細で人の気持ちに寄り添ってくれるやさしいところがありました。

葉山にまた行きたいなあと思うのは、hikiさんにまた会いたいなあとときどき、ふと思うのです。
彼女とは、今も年賀状やときどき個展のハガキを送りあう関係。

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若かりし頃のだんなはん。
だんなはんが来てくれたときに、とてもホッとしてホテルもこわくなくなった。


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モダンなホテルニューカマクラ。
ちょうど桜が満開の頃で、もっとたのしめばよかったのになあ。と、図太くなった私は思う。

さいきん、昔のことがちゃんと昔のことになってくるなあ。と、思う。
そうすると、あの頃の自分がちょっと今の自分と切り離されて、べつのものになって、懐かしくいとおしく思えてくるものだなあ。と思う。

葉山の個展では、奈良から従姉妹がはるばるやってきてくれたり、父母も長野からきてくれたり、東京に住む弟も友達と一緒にやってきてくれたり。弟の友達は、今や人気のブランドの「CINOH」のデザイナーの茅野くんだな。
あの頃、わたしの作った服をみて「へえ、こんな仕様もあるんだな」と中まで熱心に見てくれていたことを思い出します。茅野くんは文化服装学園を首席?次席?で卒業した優秀な学生さん。

当時のわたしは、たぶん全然ひとりぼっちではなく、個展もさせてもらえて、そして全然売れなかったわけではなかった。
いま思うと、レギュラーの仕事2本と自分のブランドとあって、なんとも贅沢な話!というところで、なんでもっと大切にレギュラー仕事のほうも、育てていかなかったのだろう。と、思う。
でもいっぽうで、レギュラーがなくなったからこそ、自分がなにものかにならなくては!という焦りから、もう一度作家さんとして、デザイナーさんとして必死になってもがいて、今のようなことになっていった気もする。


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隙間からみえる海。
いい街ですね。



インスタで日々のちいさな出来事を更新するようになって、アトリエナルセでは「もっと服のハナシ」で、服のことを書くようにしようと思って、(まだちょっとしか書いてないけど)長年ライフワークになってきていた「ある日のハナシのシ」、なにが書きたいかなあ。と、ちょっと迷走していましたが、とても私的なことを、そして書きたくなったことを、コツコツ、また思いついたときに書いていこうと、思います。